2話〜天使の歌声
母の手は柔らかく暖かかった。
父の背は広く安心感あった。
姉は優しくいつも笑っていた。
幸せだった。
その幸せは一瞬にして消え去った。
小さな村だった。
小さな村の小さなお祭りだった。
自分の誕生日だった。
記憶にある。
暗い空が明るくなった。
月明かりなんかじゃなくもっと一瞬の光。
誰もが空を見上げた。
歌が聞こえた。
そこには真っ白の腰まである髪を風に揺らす少女のような人影…
しかし、その人影には本来あるはずのない純白の翼があった。
天使…これに勝る適切な言葉が、表現方法がない。
その天使が片手を空へと翳す。
天使の手元からは小柄な少女の数十倍の魔法陣と呼ばれる奇妙な光が月明かりと重なり少女を照らす。
その姿はこの世のものとは思えぬほど美しかった。
多くの村人がその姿に釘付けになった。
誰もがこの後何が起きるか思考することをやめ、ただ目の前の妖艶な姿に見惚れてしまった。
この瞬間世界の時は一瞬停止ように感じた…
見上げる天使と目が合った気がした…
瞬間そっと微笑んだ気がした…
少女の頭上の魔法陣から透明な光が下にいる者たちに向かって放たれる。
光はすぐ形を変えて氷の刃のように形を変える。
大の大人一人ほどの長さ…槍と表現するのが一番近いかもしれない。
空を見上げていた人々は、気が付いた時には隣で同じように空を…天使を見上げていた者の体を氷の刃が貫き、命を奪っている。
噴出した血液を浴び、次々と我に返る。
地獄だった…
目の前で友人が…
恋人が…
妻が、夫が…
親が…
子が…
悲鳴…咽び泣く声…聞き取れない理解できない歌声。
それは自分達も例外ではなかった。
何かが来たそう感じた時には、父の首から上が突然消えた。
頭に突き刺さった槍が勢いのまま頭を引き裂いた。
残された体は失った部位から行き場を失った血液を放出し、そのまま力無く崩れ落ちた。
母は声にならない悲鳴をあげた。
「走って!早く‼︎走りなさい!」
崩れそうになる母を支えてギルに声を張り上げたのは姉だった。
姉の言葉に止まった時は動き出した。
走った
ただただ必死に地面を蹴った。
全力でただ走った。
顔についた父の血を拭うことも無く…
姉や母が後ろにいるか確認する事もなく…
天使の刃を恐れてただ必死に懸命に…
生きるために走り続けた。
走り続けて森に入ったところで木の根に足を引っ掛けて派手に転んだ。疲れや恐怖から硬直した止まる事を指令したが、反応が遅れてこの様だ。
痛みを感じ起き上がる…
鼻血は出てるし唇を切って口元に痛みが走る。朝日が木々の隙間から視界に入る。一晩中走り抜けていたようだ。
木や土に転んで顔を擦り付け、返り血も含めてドロドロの顔を服の袖で拭う。
ふと我に返って来た道を振り返る。
「ハァ…ハァ…姉さん!…母さん!」
少ない余力を振り絞り声を荒げて叫ぶ。
震える足に目一杯力を込めて木を支えに立ち上がる。
疲労で歪む視界を必死に目を凝らして周囲を注意深く見渡す。
何度も何度も
家族を探して叫びながら、来た道を…正確には村の方向に向かって歩いていく。ただただ必死に走った為道など理解しているわけはない、通った道となれば尚更わかるわけがない。
しかし恐怖と疲労で極限まで絞り出した体力は底をついた。
まだ幼いギルの精神力で意識を繋ぎ止める事など出来るはずもなくそのまま意識を失い、視界から光は消えてしまった。
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草木を規則正しく雨が穿つ音色が聞こえてくる。
雨の雫が顔の汚れに跡を残す。
「ここは…母さん?…」
ゆっくりと重い体を持ち上げる。
まだ脳はしっかりと活動していない。
首を左右にゆっくりと回し周囲を見渡す。
ようやく先程の出来事が蘇ってくる。
ハッとして立ち上がる。
足は勿論、体の節々に痛みを感じる。
雨でぬかるんだ足場に…水溜りに足を取られ、体勢を崩して横転するが気にはかけない。
すぐに立ち上がり目的地へと向かい走り出した。
雨に打たれながらも力の限り地面を蹴り、走り続ける。不思議と体が軽い、地面を蹴る足に地面の感覚が伝わってくる。
よくわからないが風の抵抗無く風に背中を押されていると錯覚するほどに早い。
ただそんな高揚もすぐに脳裏から消え去った。
母の…姉の身の安否が幼いギルの脳を埋め尽くした。
歯を食いしばり、ただ村に向かって走り続けた…
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夕暮れまで走り続け、元の村へとたどり着いたが、その変わりように足を止める…雨は勢いを増し大粒の雨が体を濡らす。
その光景に目を見開き思考を奪われた。
氷の刃が地面にぶつかった衝撃で、至る所にクレーターがある。
地面には血が付着し建物は崩れ瓦礫の山と化している。
勿論村人達の無残な遺体が無造作に転がっている。
体に穴が空いている者。
衝撃で吹き飛ばされて不自然な横たわり方をするもの。
子供を覆うように身を屈めて子共々貫かれたであろう姿。
賑やかな祭りの音は聞こえず、雨音だけが響き渡る。
その惨劇を目に胃液が逆流して吐き出した。
地に膝をつき胃液と涙と鼻水を放出する。
血の生臭さ、死臭、人糞の臭いで鼻が曲がる気がする。
それでも家族を探す為、口を拭って立ち上がる。
目を背けたいという意思を押し殺し、無残な遺体を一つ一つ確認していく。
そこに家族の姿がない事を祈り…
祭りの会場…天使の現れた場所に近付けば近付くほど違和感を感じた。
まるで干からびたように体は痩せ細り、体内から水分を感じさせない。
槍のような氷の刃で貫くような殺害方法だった気がしたが…
そんな違和感はすぐに吹き飛ばされた。
両手で自分の首を握る、苦痛に顔を歪めた母の顔。
「かあ…さ…ん……あ、あ、あああああああああああ」
泣き叫んだ。
動かぬ母の手を握る。
硬直した肌に熱を感じない冷たい手…
雨音をかき消すように声を荒げて…泣き続けた。
父は…母は…もういない
母の遺体のそばには無残に四散した肉塊、そして血に塗れたまま生気なくこちらをじっと見つめる姉の首が転がっていた。
この日家族を失った。