四話
「いやあ、マジでありがとう! ホント助かるわ」
分からない場所全てを教えてくれた茅ちゃんに大袈裟に恭しく手を合わせた。
「どんどん感謝しなさい」
いつも無感情な顔にどこか誇らしげな雰囲気がある気がした。
おもむろに彼女がリュックから文庫本を取り出した。
「あれ? もう勉強いいの?」
「あんたに教えて疲れた。今日はもういい」
正直な娘だぜ。取り敢えず自販機で紅茶を買って機嫌をとることにした。
「はい、お礼の紅茶、どぞ」
彼女はそれを受け取ってまじまじと見た。
「ねえ、坂出。これってあんたの奢り?」
「そうだね」
「あんたの金?」
「まあ、正確にはバイトやってねえし、親からの小遣いな訳だから親の金だけど……」
「そっか……。あのさ、金稼ぐのって大変なもんだよ」
抑揚の無い彼女の声に少し悲しい色が見えた気がした。何かまずいことを言ったのかもしれない。親の金で人に奢ってんじゃねえよということだろうか。俺は焦って話題を変えようとした。昔からそうやって人と向き合えない。
「その本なんてやつ?」
「不如帰」
「あー、言文一致体じゃないの苦手だわ、俺」
「子供だな」
鼻で笑ってから彼女は本の世界に意識を向けてしまった。さすがに話しかけるのは躊躇われて、俺も本を読もうと何か探しにラウンジを出て書架に向かった。
ここは小難しい本でも読んで俺の知的さをアピールしておくか。ドストエフスキーとかどうだろう。いいね、恐らく茅ちゃんは一発で惚れるね。『罪と罰』を手に意気揚々とラウンジに向かった。
茅ちゃんの横に座ってこれみよがしに表紙をひらひらさせながら読み始めた。彼女が横目で俺の本を見た。
「今更『罪と罰』?」
「いや、まあ、二回目だよ。結構好きだから」
茅ちゃん文学と親しみすぎだろ。
引くに引けないし読むしかない。細くて綺麗な指でページをめくる彼女の横で俺もどうにか字を追い始めた。
三十分で飽きた。つまんねえ。何だこれ。思索が深すぎてもうよく分からない。一周回って馬鹿に見える。取り敢えず飲んだくれにろくな奴はいないことだけは分かった。
俺は結局、前みたいに本を読む振りをしながら茅ちゃんのことを見ていた。最初彼女を見た時もそうやっていたし何も進展が無い気がする。だけど彼女を眺めることが出来る距離は縮まった。それが嬉しくてこそばゆかった。
閉館を告げるアナウンスが図書館に流れた。いつの間にかそんな時間になってしまっていたらしい。六月になって居座る時間の長くなった太陽も飽きてしまったようにとろとろと沈んでいこうとしていた。
彼女が軽くひとつ息をついてからテキパキと帰る支度をした。くあっと猫のような小さなあくびをしてから立ち上がった。かわいい。
眠そうな目でちろりと俺を見た。
「そんじゃあね」
腰のあたりでひらひらと手を振ってきた。かわいい。
「ち、ちょっと待って!」
慌てて呼び止めた。
「何?」
「茅ちゃんって帰り歩きだよね?」
「そうだけど? 家、近いし」
「俺もなんだよ。一緒に帰んね?」
彼女の眉間に少しだけ皺がよった。これは何かを考えているときの顔だ。
「明日なら……明日ならいいよ。今日は無理」
「明日?」
「そう」
ざらりとした感覚を無視して、
「分かった」と答えた。
彼女が出ていった後も俺は妙に重い腰のせいでなかなか立ち上がれなかった。




