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拙い色彩  作者: N
3/7

三話

 休館日以外毎日菖蒲さんは図書館に来ていた。彼女は大概の時間を学習室で過ごし、昼食と数十分の休憩の時だけラウンジに来る。俺も自分の部屋から埃を被った勉強道具を引っ張り出してきて学習室に行くようになった。そのことを菖蒲さんは喜びも嫌がりもしなかった。ただ俺が話しかければ返答はあるし、段々と話が続くようになってきた。

 彼女はぼうっとしていて何を考えているのかよく分からないことが多いが、案外頻繁に冗談を言う。 

「菖蒲さんってさカラオケ好き?」

 俺と彼女が出会ってから一月が経った六月に何となく尋ねた。

「結構好き」

「マジ? じゃあ今度行こうぜ」

「いいね。私、結構うまいよ。和製アリアナグランデって呼ばれてるから」と気だるげな目のまま、無表情で言った。

 ちょっと分かりづらいけどそれが彼女なりの冗談なんだから、話すことを楽しんでくれている気がして嬉しくなる。そう言う菖蒲さんの掴みづらい部分をこの一ヶ月くらいで少しだけど分かるようになった。それと同時に、俺達が一緒にカラオケに行くなんてことは有り得ないことも分かっている。カラオケだろうと映画館だろうと遊園地だろうと俺達は一緒には行けない。俺達が繋がれるのはこの図書館という場所だけなんだって分かってるしきっと彼女も分かっている。ここにしか俺達に共有出来るものは無い。だから俺達は結局今日も図書館で会う。


 菖蒲さんに影響されて勉強を始めたはいいが半年間のブランクは相当なものだった。どの教科を引っ張り出しても何も分からなかった。何が分からないのか分からないというのを初めて体験した。しかし、これは俺には好都合でもある。これを理由に菖蒲さんと話せるからだ。

 進学校の人だけあってかなり頭がよかった。中堅の県立高校出身不登校の俺とは頭の構造が違うらしい。俺は馬鹿なヤツと話しているとそいつが猿に見えると前に言ったけど、菖蒲さんからしたら俺はボノボ程度に見えてると思う。それかぎりぎり類人猿くらい。


 そんなお猿さんな俺は今、菖蒲さんをそろそろ下の名前で呼びたくてウキウキウホウホしていた。でもまだ早いかもしれない。やっぱり、半年くらいしてからのがいいかも。でもやっぱ呼んでみてえなあ。ウキウキ。

 そんなことを考えながら大量の分からない問題に付箋をつけた問題集を持って、ラウンジで菖蒲さんを待っている。彼女は俺が勉強を教えてくれと頼んだ時、「人に教えるのは自分の理解にも繋がるから」とすんなりと了承してくれた。

 菖蒲さんが入ってきた。いや、かやちゃんが入ってきた。先に脳内でシュミレートしておこう。まずい、緊張してきた。バナナ食べたい。

「今日も大漁だねえ。さぞや坂出の持ってる問題集のレベルは高いんだろうね」

 茅ちゃんが俺の問題集おびただしい量の付箋を一瞥して、全く表情筋を使わずに言った。皮肉屋な所も素敵!

「悪いね、ほんと。やっぱ半年も不登校するもんじゃないわ。今日も頼んますよ。茅ちゃん」

 目を合わせられなかった。

 沈黙。ちらりと茅ちゃんの顔を見る。彼女はただぼうっと突っ立ってこちらを見ていた。早すぎたか。これはまずい。取り返しがつくかな。どうする。バナナ。

 突然、ネジを巻き終えたおもちゃのように彼女は動き始めて、俺の横の席に座った。

「おい、坂出」

「はい、坂出です。はい」

 ぎくりと背が強ばって、背筋が張り詰める。

「私は坂出と呼ぶ。隼人はやととは呼ばない」

「はい、分かりました」

 いつもより更に平坦な彼女の口調に自然と敬語になってしまった。

「で、どこ? 分かんないの」

 取り敢えず茅ちゃんと呼んでいいようだ。ほっと心中で安堵の息をついた。

「ここが解説読んでも全然分かんなくて」

 目の前のテーブルに置いてある数学の問題集を開いて、彼女に見せた。

「ん」

 彼女が問題集をのぞき込んだ。彼女の綺麗な横顔が俺の目の前に来る。果物とは違う、人の持つ甘い香りがして耳の先まで一気に熱を帯びしてしまった。何度こうしていても一向にそれに慣れる気配は無い。高一の頃付き合っていた彼女といた時だってこんなドキドキしたことはなかった。馬鹿でも猿でもいいやと思った。

「ここは、前の問題の答を利用する」

 彼女がすらすらとノートにシャーペンを走らせる。綺麗で少し丸い字が現れた。茅ちゃんの字が入ると俺の男臭さが滲み出てくるような字がのたくっているノートが唐突に華やいだ。

「ああ、なるほどね」

 やっぱり茅ちゃんは相当頭がいい。俺の分からない所をものの数十秒で理解してしまう。それか俺が頭悪すぎるのかもしれない。 

 ——人から逃げる為に学校行かなくなって、結局女の子にドキドキして、俺は何やってんだか。

 自分の矛盾に呆れながら彼女の涼しげな横顔を見ていた。その時、彼女がテーブルの上の俺の手の甲にシャーペンを刺した。

「いった!」

「集中しなさい」

「はい、すんません」

 何かお礼しなくちゃいけないよな。最近よくそう思う。でも何をしたって俺は彼女から与えられてしまう。彼女を助けるという行為それ自体がもう自分の為になる。それでも何かしたくて、また俺の意識は数学の問題から離れていってしまった。

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