かぞくのしあわせ
白くて柔らかい、長細いものに両手をあて、指を這わせる。
十本の指をあてがうと指先、第一関節を組み合わせられるくらいの太さの長細いもの、それを締め付ける。
食い込んでゆく指、全てが赤に包まれた世界の中で、私の指がそれに、より堅く絡みつき、より深く食い込んでゆく、それにつれ、ああ、とても気持ちが昂る。
染みついた汚れが洗い落とされていくように、心が軽くなる。
さらに締め付ける、更に強固に。もう少し、もう少しで。
そして私は目を覚ました。目覚まし時計のけたたましい音が鼓膜を刺激している、ああそうだ、夫が一時間ほど前に起きて、出かけて行ってから、私は二度寝していた。
最近よく見る夢をまた見ていたようだ。もう起きないと、仕事に間に合わなくなってしまう、そう考えて体を起こす。
また忙しい一日が始まってしまった。
早朝、ドアを開き、外へと足を踏み出すといつもの音が聞こえてくる。床を細かな枝が擦るような、規則正しい音。なんだか懐かしい気持ちになる。
日差しと共に頭上から声降ってきた。見上げるとおばあさんが箒を手に、柔らかな笑みを浮かべながらこちらを向いている。
変わらない日常、家族と共にこの裏野ハイツに越してきてからもう一年が経とうとしていた。住民は良い人ばかり、とは限らないけれど今のところ住民との付き合いは上手くいっている。
旦那は先に用意されていた朝食を平らげ、数十分前にもう出勤していってしまった。通勤に時間がかかるために仕方がない。
「おはよう、早いのね、今日もお仕事かしら」
「ああ、おはようございます。今日もいいお天気ですね」
「本当に、でも夕方には夕立がくるかもしれないみたいよ、傘を持って行った方がいいわよ」
「ありがとうございます、そうさせていただきます」
「雨が降る前に洗濯物、片づけられれば良いけど、もし必要なら言ってちょうだい、私も暇ですから、手伝いますよ」
「ああ、すいません、でも、大丈夫です」
「そう、何かあったら言ってちょうだいね。同じ場所に住む仲間なんだから」
「ありがとうございます」
彼女は少しお節介に過ぎるところがあるけれど、基本的には悪い人ではない。私が頭を下げると、おばあさんは少し空を見上げ、201号室へと消えた。
私はゴミ収集所に向かい、曜日を確認して燃えるゴミの日だとわかると、扉を開き、ゴミ袋を中へと入れた。少しすると向こうから男性が歩いてくる。
テーブルの上にうつ伏せになるあの人、床に倒れこむあの子、ああ、夢であったらよかったのに、けれどこれは夢じゃない。
現実だ、疑いようもない現実なのだ。何が原因?
分かりきった事。あの人が別れたいなんて口にするから、あの子が、まだ幼いあの子がいるのに、若い女が良いなんて、許せるわけがない。口では君のことが分からなくなったなんて言っているけれど、私は知っている。
あの子が生まれて、ここ二三年で、急にあなたが冷たくなった事。
出張が多くなって家に帰る時間が減った事、それによそよそしい電話が増えた事、知っていた、私は知っていたのに。
でも、今は幸せだ。私の幸せは永遠になった。これでずっと一緒にいられる。あの人が誰かに取られてしまう心配もない、それだけで私は幸せ。
「おはようございます」
そう、声を掛けられて私は挨拶を返し、会釈をした。朝の慌ただしい時間、燃えるごみの袋を片手に抱えながら、矢田さんが頭を下げた。彼はこの裏野ハイツ、101号室の住民だ。こざっぱりとしたスーツの着こなしに隙はなく、洗練されたイメージとその年齢から、どこかの会社の重役を思わせられる。
「最近は暑いですから、食べ物が日持ちしなくて困りますね。家だとすぐにゴミが一杯になってしまいます」
「ええ、本当に、今年は暑くなるみたいで、嫌になりますね」
「もう八月ですから、当たり前なのですが、この歳ともなりますと疲れが抜けなくて、そのうえでこの暑さでしょう、嫌になりますよ。
仕事を済ませて帰宅しても連日の熱帯夜、一向に涼しくなりませんから、食欲もわきません。
冷房に頼るとばててしまって、体を壊してしまいますでしょう、なんとか我慢しているんですが食欲はどうしようもない。
けれど人間ですから食べない訳にもいかないでしょう、無理にでも、と思い食材を買ってくるのですが、結局食べられなくてゴミばかりが増える始末です」
「大変ですね、家もみんなあまり食が太い方じゃないから夏になると一層、欲が細くなって心配です。
そんなに食べなくて一日持つのかしらって。食べ残しが多いから私が太ってしまうんじゃないかってそちらの方が不安ですけど」
「いいことじゃないですか、私もどうにかしなければいけませんね。いや、失礼しました。それではまた」
そういって普段と変わらない笑みを浮かべながら矢田さんは去っていった。今日も暑い一日が始まりそうだ。
私もパートの時間までに洗濯と掃除を済ませなければならない、あの子を送って職場まで、そんな事を考えていると日差しが顔を照らし出した。
なぜだ、なぜ。どうしてこんな結末になってしまったのだろう、未だに理解できない。
怒りだろうか、私は一時の怒りに任せてこんなことを。
覚えていない、いや、怒りだ、あの時、頭の芯が震えるほどの怒りが、確かに感じられた。あの激情を抑えることができなかった。そうだ、私が、私がやったのだ。
謝るから、ゆるして、許してほしい、そう言葉を投げかけても、もう返事は無い。
蝉時雨が遠のき、クーラーの動作音が消えた。目の前の人間は息をしていない、それは確かな事だ、問題なのはどうしてこうなってしまったのか、ではない、冷静になれ、これをどうする、先を考えなければならない、私はどうすればいい、振り返るな、進むんだ、進むしか道は残されていない、やるしかない。
カーテンの隙間から瞳が見える。いやだ、またみられている。毎朝この時間に視線を感じていた。ばれていないとでも思っているのだろうか。102号室の男、青白い顔、伸びきった髭、ばらばらに伸びた髪、得体のしれない引きこもりの男がこちらを見ている。
このハイツで話したことのない住民は彼だけだった。私は足早に家の扉を開き、中へと逃げ込んだ。
「ママ、どうしたの?」
裕理が不思議そうな顔を私に向けていた。
「いや、なんでもないの、なんでもないのよ」
「今日ね、亮くんが来たの、また、バイバイって手を振ってたよ」
「またそんな事、駄目よ、お家まで来たことのある子なんていないでしょう?」
「いるもん、ママが怖いんだよきっと。りょうくんとしょうくん、ママが怒るから」
「わかった、怒らないから少し静かにしていてね、ママ、お洗濯終わらせてきちゃうから」
「いるもん・・・・・・」
裕理は俯いて部屋の隅で何かを始めたようだ。元々あまり泣かない、大人しい子だった。それに加えて最近になって、やっと喋れるようになると独り言が増え、不思議な事ばかり口にするようになってきていた。
私は少し不安を感じながらも、子供の想像力は大きいし、そういうものなのだと自分を納得させて炊事洗濯などに追われ、慌ただしい時間を過ごした。
虚ろで濁りきった瞳、何も映さない眼球、こちらを見ている。ああ、くそ、どうしたらいいんだ。どうしたら、外の世界が恐ろしい。これからどんな目を向けられるのだろうか、なんでこんなことに、自分が悪いのはわかっている。変われなかった自分が悪い、だけど、どうすればよかった、どうにかできたのか、無理だっただろう、そうだ、無理だったんだ。
悪いのはあいつじゃないか、自分は悪くない、そうだ、悪くないんだ。だけど、どうしたらいいんだ、これから先、どうすれば。ああ、くそう。何も浮かばない、何も考えられない。ちくしょう、ああ、ノックが聞こえる、部屋のドアを叩く、ノックの音が。
一通り済ませて、一息つこうと椅子に座ると、不意に部屋に影が差した気がした。朝の、まだ涼しい時間帯、首筋を汗が一筋伝い落ちる。時折こんなことが起きる。気のせい、そう思っていても気になってしまう。視線を滑らせると視界の端を影が走った気がした。小さな影のシルエット、カーテンの裏側に滑り込む。
「うん、知ってるよ、お首が変なおじちゃんとおばちゃん、しょうくんにおじいちゃんでしょう。え、増えるの? もうすぐ? 仲良くなれるかな」
息子の声に体がびくりと反応してしまう。でも、あるはずがない、そう、そんな事、きっとこの子が不安にさせるような事ばかり口にするから、少し神経が過敏になっているだけ。
私は気を強く持ってそれを否定した。目を向けると、裕理は部屋の隅で何かにしきりに話しかけている。その視線の先は、ああ、やはりカーテンの影。
「誰とお話ししているの、ほら、馬鹿な事していないで、ほら、もうすぐ出かける時間だよ、用意しなきゃ」
「ああ、りょうくん、行っちゃった。ママが意地悪するから」
そういって拗ねてしまう息子に少し苛立ちながらも、私は再び動き始めた。この場所に住み始めて数か月、言葉を覚えても裕理はあまり話さなかった。それがここ最近、少しずつ話すようになってきている、喜ばしいことなのだけれど、何か違和感が拭えずにいた。あの子は気が付けば部屋の隅で独り言ばかり口にしている。部屋の隅や天井、家具の影に向かって。
話さなかったあの子が話せるようになったことは純粋に嬉しい、けれど、その奇妙な癖は異常だ、どうにかしてやめさせなければ、そう思って両親に聞いてみると、小さな時はそんなものだ、大きくなるにつれやらなくなると言われてしまった。だから私は気味が悪いと思いつつ、現状を維持している。
それに子供が怖がっていないのに、私が恐れていては駄目なのだ。ある事柄に精神力を奪われて、情緒不安定になりつつある自分を律しないと、そう思って私は顔を引き締める。
暴力だけは振るってはいけない、そう思いつつも少しずつ自分がヒステリックになりつつある自分を知って、いつか不意に禁を破ってしまいそうで怖かった。
こうして普段と変わらない一日、仕事が始まる。私は着替えて裏野ハイツを後にした。息子の手を引いて少し歩き、何か忘れ物はないだろうかと思い振り返ると、二階の部屋から丁度、姿を現したおばあさんがこちらに気が付き手を振っていた。
ささやきが聞こえる。あのささやきが。彼は求めていた、家族を求めて。私にはずっと聞こえていた。隣の部屋から、ずっと。不安に思う毎日の中で、ささやきはずっと続いていた。ママと呼ばれて、抱きつかれて、始めは恐ろしかった。けれど、夫に冷たくされるうちに、あの子に煩わされるうちに、私の心は変わり始めた。ああ、あのささやきが聞こえる。大丈夫だよ、みんな家族になれるから、だから、だから頂戴。
パートが終わり、買い物を済ませると、私は一度家に戻る。午後の日差しが容赦なく顔を照らしつけていた。片手に抱えたエコバック、中に詰まった食料品が暑さのせいかいつも以上に重く感じられた。
汗をぬぐいながらドアカギを出し、差し込もうとしていると、突然隣のドアが開いた。102号室の扉、予想していなかったので体が硬直してしまう。青白い顔が私に迫ってきた。
「あ、あんた、今のうちに逃げた方がいい、ここにいない方がいい。もうすぐだ、もうすぐ、時間がない、ああ、背中の影が」
急に迫られて言葉が出てこない。息を荒くした男は、枯れかけた声でまくしたてる。
「え、何のことですか、変な事言わないでください」
血走った眼、口から泡が出ている、明らかに興奮していた。鍵が鍵穴に上手く入らない、ああ、もう、早く逃げないと。
「今ならまだ間に合うんだ、俺は、どうしようもなかった。逃げようともしなかった、その勇気もないただの引きこもりだ。どうせ逃げられやしないんだ。だけど、くそ」
慌てて鍵を落としてしまう。視線をあわせてはいけない、ああ、急がないと、だれか、だれか来て・・・・・・
「脅迫ですか? 出て行けっていうんですか?」
「違う、くそ、ああ、あれは誰だ、ちくしょう、俺じゃだめなのか、勝手にしろ」
早口で言いたいことだけいった男は来た時と同じ速度で踵を返すとあっという間にドアの中にその身を滑り込ませて消えていった。
やっと硬直した体に温度が戻ってくる。
私はすぐに鍵を拾い、ドアを開ける。
間をあけずにドアを閉めるとしばらくドアに寄りかかっていた。
「理美さん。ちょっといいかしら」
再び声を掛けられ、体が震えてしまう。すぐに平常心を取り戻し、ドアスコープから外をのぞくとお義母さんが来ていた。ああ、それであの男は急に部屋に戻ったのか、と納得する。
私はよりによってお義母さんに助けられたことに苦笑する。また面倒がやってきてしまったと思いつつもドアをすぐに開いた。
合鍵を持っているお義母さんが、私は苦手だった。何かにつけて私をしかりつけ、厳しく躾けようと様々な押し付けを繰り返してくる。
時に理不尽な無理事を押し付けられ、叱責を繰り返されて私は参ってしまった。夫にそれを相談しても我慢してくれとしか言われない。最近の情緒不安定にはお義母さんによるところが大きかった。
「ああ、お義母さん、いらっしゃいませ。今日はどうなさったのですか?」
「何を呆けているの、ほらさっさとしなさい。お客様が来たのだからお茶の用意くらいできるでしょう」
「あ、すいませんお義母さん。今すぐしますから」
「まったく、もっと機敏に動けないのかしら、育ちが悪いと気が利かなくて困るわね」
「すいません」
全く今日は良いことがない。お義母さんはこうして何の連絡もなしに現れては私がいない間、キッチンを利用して料理を作ったり、勝手に家の中を片づけたりしていた。
まだあれこれ言われることには耐えられるが、大切にしていた小物などを勝手に捨てられてしまうのには困ってしまう。
できればもう会いたくないけれど、長い付き合いになる相手に、もう来ないでくれとは言えなかった。
かつては関係は良好でお互い良い付き合いをしていたのに、お義母さんは変わってしまった、こんな人じゃなかったのに。それともただ、猫をかぶっていただけなのだろうか。
最近は特に私に対する当たり方が本当にひどくなってきている。
陰鬱な気持ちになりつつも私はお茶を入れ、買い置きしていたマドレーヌを用意していると何かにささやきかけられた気がした。
気のせいだろう、そう思いつつも視線はそちらに向いてしまう。テーブルの端からカーテンの隅へ、小さな影が走る。
「何、あなた何を見ているの?」
「ああ、すいません今ゆきますから」
我慢しなくていいのに・・・・・・
子供の声、今、確かに、そう聞こえた。
白い、細長い柔らかなものに指が食い込む、ああ、そうだ。
気持ちが昂る、このまま、そうこのまま、この物体が千切れるほどに指を食い込ませて、これをしっかり締め付けなければ。
顔に何かが当たり、口が切れる。それでも止められない、そうだ、最後まで、今度は最後までやらないと。これは夢の続き、興奮が続く、今度は止められない、そう、私はずっとこうしたかったんだ。ああなんて素晴らしい、清々しい気持ち。
ずっとこうしたかったんだ。
はっとして部屋を見渡すと部屋に赤い日が差し込んでいた。あれから私は何をしていたのだろう。お義母さんは帰ったのだろうか、そう思って足元を見ると、そこに彼女が居た。膨れ上がった頬、眼球が飛び出そうなほど目を見開いて事切れている。
そんな、うそでしょう、こんなはずじゃ。何とか、何とかしなきゃ、焦っていると部屋のドアが開いた。そんな、そうか、鍵を閉めていなかった、この騒ぎを聞きつけて誰かが駆け付けたのだろうか、もう終わりだ、私はもう、ドアが、ドアの向こうに人が。
「やっと、やっとやってくれましたね」
ドアの向こうから現れた矢田さんは、私のこの状況を見て、そう言った。
裏切ったのは私ではない、いや、伴侶を先に裏切ったのは私だが、それでも私は悪くないはずだ。それに私は覚えていない、どうやって彼女を殺したのか。
けれど、殺したいほどの怒りがあったのは、私の中にそれだけの憎悪があったのは確かだった。少なからずこの結果に私は安堵していたのだから。
同じ苦しみにこの先、悩まされることがない、そう考えただけで心が軽くなった。ああ、しかし、これをどうしようか、この彼女の遺体をどう隠したらいいのか、自首するべきだろうか、それとも何とかして隠すべきか。悩む内に、不意に私の背中に声がかかった。
「このハイツの秘密を、やっと話せる時がやってきました。これでやっと私たちは本当の仲間になれる、少しお時間を頂けますか」
そう言って矢田さんは私に手を差し出した。私は状況が呑み込めなかった。何故、こんな状況なのに彼は冷静でいられるのか、何を言っているの、そして何を提案されているの、私には何一つわからない。
「戸惑うのはわかります、しかし、時間はあまりないのでは? お子さんも待っているのでしょう」
ああ、そうだ。裕理を迎えに行かなくては。でもその前にお義母さんを何とかしなきゃ、ああ、わからない、何も、何をしたらいいのか。けれどこうしていても何も始まらない、私は仕方なく言われるままに部屋を出た。
外には二人が待ち構えていた。ハイツの住民である二人、隣人である102号室のあの男と201号室のおばあさん。なんで、と思う暇もなく二人から告げられた。
「やっとあなたも仲間入りね」
「俺は、俺は止めたぞ、止めようとしたんだ、それをお前、馬鹿なやつだ」
おばあさんが102号室の男を睨みつける。それは今までに見たことのない、怒りの形相だった。それに気が付き男がひるむ。
「ひっ」
「あなた、これでわかったでしょう。無駄なことはしないでちょうだい。いくらこのハイツの所有者だからと言って、通らない道理もありますよ」
「俺は、俺はただ、引き籠るだけじゃだめだって思って、くそ、いつやめたっていいんだ、ここは俺のものなんだから」
そう答えた途端に、矢田さんとおばあさんの表情が凍り付いた、二人の視線が男に突き刺さる。
「重田さん、分かっているんですか、あなただって私らと変わらないんだ、終わりなんですよ、ばらしてしまえば、それに彼女だって終わってしまう、責任をとれますか、あなたに」
「私たちが捧げたものを壊そうというの? それはどういう意味かわかっているの? それとも、あなたも家族になりたいのかしら」
途端に男が委縮し始めた、違うんだ、本当は去勢をはっていただけだから、そう言って二人に頭を下げる。私はただ、そのやりとりを呆然と見つめて、ただ立っているだけだった。
「ごめんなさい、さあ、あの人を運びましょう」
おばあさんがそう言って二人に指示を出す。矢田さんと重田と呼ばれていた男はお義母さんを二人で抱え上げた。
「ちょっと待ってください、それをどこへ、どこかに埋めるんですか」
私はうまく働かない頭を抱えながらもそう声を上げる。
「大丈夫、彼女は選ばれたのよ、あの部屋に、家族としてね。このハイツに気に入られた人たちは必ず殺してしまうの、住民の親しい人を、必ずね」
おばあさんがそう言って202号室を見上げ、上へと移動すると鍵を開いた。私はふらふらとしながらも誘われるように202号室に足を踏み入れる。
部屋の中は真っ暗だった。厚いカーテンに塞がれた影の世界。冷房が効いているのか、やけに冷えている、そして湿気も全く感じられない。
リビングに無造作に置かれたテーブル、そのの上に据えられた電気ランプに火が灯る。
電球に照らし出された部屋の中には何も見当たらなかった。
埃のたまる床、そしてテーブル、それに意を介さずおばあさんは奥へと進む、やがて奥の洋間に続くドアを開いた。
私は靴を脱ぎ、いまだおぼつかない足腰のまま洋間を除いた。一挙に黴臭さがひどくなった気がする。
先ほどと同じテーブル、そしてその周りに幾つかの椅子が据えられている。締め切りの部屋の中、漏れる明かりだけではよくわからない。
おばあさんがスイッチをいれ、再びテーブルの上の電気式のランプが灯される。浮かび上がったのは並んだ椅子に座る何かだった。
「わかるかしら、ほら、この人が新しい仲間なの、みんな、紹介が遅れてごめんなさいね」
黒く、干からびた何か。光の瞬きに合わせてそれの表情が変わる。
「まさか、これって」
「みんな家族なのよ。ほら、この男性とこの子が私の夫と子供」
左奥に座る二つの遺体を指さしておばあさんは語る。計四人の遺体が椅子に座らされていた。そのどれもが首がねじれている。体が再び震え始めた。こんなことって、待って、それじゃこれはすべて、本物。
「私が始まりだったの、私は二人を捧げたのよ。私は随分と長くここに住んでいる。隣のこの部屋は二十年前から開かずの部屋だった。何かの事件があったと聞いていたわ。
住み始めの頃は幸せだった。でも、数年が過ぎる頃間違いがあった。私の夫が浮気をしてね、私を捨てるといった。精神的に不安定だった私は処方されていた睡眠薬を使って眠らせてこの部屋に運んだの。
何故この部屋だったのか、なぜ鍵が開いていたのか、ずっと鍵がかけられていたこの部屋に何故は入れたのか。あの時の私は自分が狂ってしまったと思っていた。
私はこの部屋で二人の首を絞めて殺したの。わかるでしょうあなたなら、私は疲れていたのよ、私を顧みない夫と、私に全くなつかないあの子に」
熱に浮かされたように口が止まらないおばあさんをよそに、お義母さんを運んで二人がやってくる。彼女の遺体が椅子に座らされた。流れる汗をそのままに、二人が呆然と話し続けるおばあさんを見ていた。
「でも二人はもう心配ないの、新しい家族ができたんですもの。この部屋に選ばれたんですもの。何故かわからないけれどこの部屋の椅子に、二人はしっくりくると思ったのよ。
二人は腐らなかった。どれだけ時間が過ぎてもあの人とこの子は肉を失わなかった。でも、いつかはばれてしまう、いつかは私がしたことが問われる日がやってくる、そう思っていた。けれど、そうはならなかったの」
「俺は、くそ、最悪だ。あの日、おれは、親父と口論したんだ。ずっと引き籠っているつもりか、早く出てこい、そう言われて部屋のドアを蹴破られた。そしたら、ああ、あの夢、あの夢が見えて。親父を絞め殺していた。そこへこの女がやってきたんだ。
俺は、俺はあの日から家を出てこのハイツに移り住まざるを得なくなった。俺の母親はもう死んでしまっていた、一人で生きていく自信が無かったんだ、それにばれてしまうのが恐ろしかった、だから、だから親父は失踪したって、くそう、あれからもう何年縛られているんだ、俺は、俺は、親父を殺した日、あの日になると部屋に影が来るんだ、俺を責めに来るんだよ。年末の二日間、俺はここから出なきゃならない、ずっとでていたい、けど、それができないんだ」
重田は頭を抱えて泣き出していた。その背中に覆いかぶさるように影が落ちる。
「あなたは私の世話を受けておいて、いまさら何を言っているの、それに私は誘われただけ、あの子が、知っているでしょう。あなたも知っている。
影を見たことがあるでしょう。この部屋にずっと潜んでいた影の子供、家族が欲しいのよ。だから私たちは家族を増やしてあげなきゃ。私たちの幸せとあの子の幸せを叶えるために」
そう言っておばあさんは笑う、それを見て矢田さんが話し出した。
「私は、このハイツを愛人のために借りたんです。始めは良好な関係だった、けれど、だんだんと彼女は変わってしまった。私の生活を壊すとまで言ってきた。だから私は、ああ、まだこの手に残る感触をぬぐい切ることができない。
恐ろしい、恐ろしいが、私は確かにあの時、喜んでいた。私がこの手で彼女を殺したんだ。妻とは別れました、あの日から私は変わってしまった。なぜでしょう、ここにいると安心できるんです。恐ろしいのに、不思議でしょう、大丈夫、あなたもそのうち慣れますよそしてきっと、この場所から離れられなくなる。大丈夫、この国は失踪する人間が多い、現に私たちも捕まっていないのですから」
そこまで言われ、私は私の中で何かが欠け落ちて行くのを感じていた。話を聞いている間中、ずっと部屋の中を何かが駆けずり回っていた。あの子供の影、それが今では恐ろしくなくなっている。
私はこの生活に慣れることができるだろうか、でも彼らとは仲良くやれそうな気がする。変えられてゆくのは恐ろしいけれど、変わってしまえば怖くはない、そして、私は変わらなければならない。
私は彼らから目をそらす。リビングにある同じテーブル、そして椅子を見た。その椅子に影が落ちていた。七客の椅子、ランプの不規則な光で影が揺れている。子供の影が二つ、男の影が二つ、そして女性の影が二つ。203号室入居が決まったという新たな住民の、どんな人物がこの部屋の新しい家族になるのだろう。
夫、妻、弟、祖父、祖母、そこまで考えたところで子供の笑い声が部屋の中を走り抜け、耳元で妹が欲しい、と、声が聞こえた。