(5)
一瞬、魔女は黒猫が再び化けたのかと思った。
だが、当の黒猫は小さく縮こまり、魔女の足元にまとわりついている。
(本人!? ――だとしたら、どうやってこの空間に入った?)
ディージアに狙われるほどの膨大な魔力の持ち主とはいえ、あくまで一般人であるオーレリーの母親が、自力でこの場へ入り込むことなどできるはずがない。
ならば、国家魔術師の二人が彼女を送り込んだ? いや、まさか、保護対象をわざわざ敵前に放り出すような真似をするとも思えない。そもそも、魔女に気取られずに領域の入り口を開くこと自体、おいそれとやってのけられるような所業ではないのだ。声をかけられるまで魔女自身が気づかないなど、あり得るだろうか。
混乱する魔女を尻目に、オーレリーの母親は淡々と言葉を続けた。
「私の力がそれほどにまで欲しいのならば、好きなだけ持っていけばいい。私はここにいます。逃げも隠れもしませんよ」
「ああそうだ。最初からそうすれば良かったんだ! 今すぐ、今すぐお前の力を全てよこせ!」
金切り声と共に、再度ディージアの髪が伸びた。
オーレリーの母親の右手首に巻き付き、強く束縛する。
「いけない!」
魔女は我に返って彼女の側に駆け寄ろうとしたが、それを視線で押しとどめられた。
オーレリーの母親は、手首に絡まったディージアの赤毛を払うどころか、逆にそれを強く握り込んだ。瞬間、閃光がはじけるような音と光がその場に響き渡る。――彼女の手からディージアへ、魔力がほとばしっているのだ。
ディージアはぐんぐん魔力を吸い上げていった。
錆びた赤毛に艶が戻り、枯れ木のような肢体に肉付きが増す。皺ひとつない瑞々しい肌に、少し朱の差した健康的な頬。彼女は時間を巻き戻すかのように若返っていき、ついに、血走っていた眼に瑞々しい輝きが宿った。
「ああ……!」
思わずというように上がった感嘆の声も、先ほどまでのしわがれたものとはまるで違う。恍惚としたその表情には、どこか艶めいた色っぽささえ感じられた。
魔女は、戦々恐々としながらその様を見つめていた。
魔力を吸い上げる勢いが凄まじすぎる。普通に考えれば、吸い上げられているオーレリーの母親の方が干からびてしまってもおかしくない。
しかし、当の本人はといえば、未だ涼しい顔をしてディージアに魔力を与え続けていた。もはや束縛の体をなしていないディージアの赤毛を握り込んでいるのは彼女の方だ。そう、彼女は、意図的に魔力を送り続けている。
あまりにも常軌を逸したこの光景に、魔女は確信した。
この女は、オーレリーの母親ではない、と。
一方のディージアは、そんな違和感は露ほども感じていない様子で、自身の力が戻ったことを単純に喜んでいる様子だった。なんなら、そのまま相手の命が尽きるまで魔力を食らい尽くしてしまえとでも考えていたに違いない。
しかしそれも束の間のこと。
尋常ではない魔力が供給され続ける異様さに、遅ればせながらディージア自身も気づき始めた。
次第にその表情が曇り始め、怪訝な様子で眉がひそめられる。
そうするうちにも激流がごとく押し寄せる魔力に、体の方が先に悲鳴を上げたようだ。
「あ……頭が、痛いっ!」
両手で頭を抱え込んで、ディージアはうずくまった。
がくがくと全身を震わせながら、かろうじて顔を上げ、オーレリーの母親――いや、得体の知れぬ「女」を睨みつける。その顔からは、急速に血の気が引いていった。
それでも、女はディージアの赤毛を離さない。
「も、もういい。もういい! 魔力を止めろ!」
「何を言うのです。私の力を『全て』よこせと言ったのはあなたでしょうに」
女は白々とした声で答える。
「まだ、力の半分もお渡ししていませんよ」
やはり、この女がオーレリーの母親であるはずがない。
かといって、ただ魔力が有り余っている一般人のはずもない。
これは「魔女」だ。しかも、相当高位の。
ここまで圧倒的な力を持った存在を、魔女は知らなかった。
――ただ一人を除いては。
「頭が、割れる……! 頭が爆発する……!!」
ディージアの眼窩から、目玉が零れ落ちそうだ。
わなわなと震える唇の端からは、鮮血が一つの筋を作って零れ落ちていく。
それでも、女は魔力を送るのを止めなかった。
魔女はそっと目を逸らした。
黒猫が、かがんだままの魔女の膝に飛び乗り、小さな頭を腹に埋めてくる。
「あ、あ、あ……、ぎゃあああああああ―――!!」
ディージアの断末魔が響き渡った。
その叫び声だけで呪われそうだと、魔女は思った。
しかしそれも長くは続かない。ぱたりと声が止むと、そのあとには冷え冷えとした静寂だけが残された。
もう一度魔女が視線を戻すと、ディージアはうつ伏せになってその場に倒れ込んでいるのだった。指一本、動く気配がない。
魔女は黒猫を片手で抱えながら立ち上がると、同じくすぐ側で立ちつくしている「女」に声をかけた。
「……殺したんです?」
「嫌だわ、人聞きの悪いことを」
彼女は、ゆっくりと振り返った。
「私は、私の魔力を分けてあげただけ。それだけで人を殺めることはできないわ。……殺めてはいない、という表現しかできないけれど」
恐ろしい女だ。
かつての弟子に、わずかたりともかける情けはないらしい。
「さあ、もう行きましょう。リシュール、お疲れ様」
そして彼女は、うっすらと笑みを浮かべたのだった。
魔女はゆるりとまぶたを開いた。
大きな魔法陣の「核」に両手をついたまま項垂れている自分の姿に気が付いて、気だるげに上体を起こす。全身が鉛のように重かった。
周囲を見渡せば、魔法陣の真ん中には黒猫、その陣の周りを囲むようにして領主一家と国家魔術師たちの姿がある。その中に兄弟の母の姿を認めて、魔女はわずかに目を細めた。――彼女は、正真正銘の本人だろう。
固唾を呑んでこちらを見守っているのは、術を行使する前と変わらぬ顔ぶれだ。今しがたディージアを破滅へ追いやった女の姿はどこにも見えない。恐らくは、全く別の場所から、意識だけをあの空間にねじ込ませてきたのに違いない。あの人は本当に、あり得ないことを平然とやってのけるから敵わない。
「リシュー、大丈夫ですか。顔色が悪い」
オーレリーが心配そうにこちらへ歩み寄ってきた。
差し出された彼の手には頼らず、魔女は小さく頷くと、自分の足で立ち上がった。全くこの男ときたら、魔女の体調を気にするより先に、確認すべきことは山ほどあるだろうに。
「それで、邪悪な魔女はどうなったのだ?」
領主が堪りかねたように口を挟んできた。
そうとも、これこそが正しい反応だ。
魔法陣から自分の足元に駆け寄ってきた黒猫を拾い上げてやりながら、魔女は冷ややかな目で陣の中心を見据えた。
「ディージアは、この魔法陣の中に。陣を消してしまえば、再び同じ陣を敷くまで、二度と現世には出てこられない」
仮に出てこられたとしても、もはやディージアは廃人同然の身、彼女の意識が「正しく」現世に戻ることはないだろう。
その言葉を聞いた領主は、隣で控えていた妻の両手をしっかりと握りしめ、飛び上がらんばかりに喜んだ。
「おお、神よ! 長い長い悪夢がようやく終わったのだ!」
神どころか、始末をつけたのは日陰に生きるはぐれ魔女たちなのだが、領主にとってはそんなことはどうでもいいらしい。
「待ってくれ、いくつか確認したい」
浮かれる父親とは反対に、こんな時でも冷静なユーベルが、慎重に言葉を紡いだ。
「この陣に誘い込めるのは『意識』だけという理解でいいな? ということは、ディージアの『体』は今もこの世に存在しているということになる。そちらはどうなる?」
「結論から言えば、どうにもならない。その『体』はもう空っぽだ。誰がどうあがいても、空っぽの『体』を目覚めさせることはできない。さっきも言った通り、この魔法陣から『意識』を解放してやらない限りはね」
「眠り続けた状態になるということか」
「しばらくは。……ただ、これまでディージアは魔術で若い肉体を維持してきたが、それもできなくなったからには、相当な速度で肉体が年老いていくことになるだろう。もちろん、意識がないままでね。そのうち肉体に限界が来れば、身体機能は停止する。つまり、『体』の死だ」
だが、魔女にはその行く末までは興味がない。
「本人の『体』とこの魔法陣をどうするかは、国家魔術師どもに任せよう」
「ええ、我々が責任をもって管理いたします」
サラシャがしっかりと頷いた。
「なら」
ユーベルはなおも言葉を重ねる。
「この『夢繋ぎの術』とやらを、今回の件を与り知らぬ全くの他人が行使した場合は?」
「というと?」
「この術は、魔女の世界では一般的に知られた術なんだろう。魔法陣の術式が変わらないなら、他人が同じ陣を敷いてディージアの意識を解放する虞があるんじゃないか?」
「いや、それはない。ただ夢を繋ぐだけなら確かに術式は同じだが、今回は『檻』の役目を兼ねることも最初から分かっていたから、細部を独特の術式に変えている。一つの屋敷の中で、扉によって微妙に鍵の仕様が異なるとでも思ってもらえばいい」
「なるほど」
ユーベルは神妙な顔で頷いた。
全く、いかにもこの男らしい。あらゆる可能性を頭の中にずらりと並べて、懸念を一つ一つ潰し込もうというのだろう。
「ユーベル、今この場で魔女様を質問攻めにするのはお止しなさい」
そんな彼を諫めたのは、騒動の渦中にあった兄弟の母である。
「魔女様は、私たちのために大変な大仕事をこなしてくださったのです。今夜はここまでにして、ゆっくり休んで頂きましょう。確認すべき事項については、また明日以降お話を伺えばいいのだわ。時間はいくらでもあるのですから」
諭すような物言いを受けたユーベルは、意味深げな視線を魔女へと寄越す。
「……そうだといいんだがな」
しっかりと魔女の耳に届いたその独り言を、あえて魔女は聞き流した。
「魔女様、大変失礼いたしました。すぐにお部屋をご用意しますから、今晩は、どうかそちらでお休みください」
やれやれ、と魔女は心の中で肩をすくめる。
さすがに、ここで解散というわけにはいかないか。
しかしそれは想定の範囲内だ。はいそれじゃあさようならと、何事もなく解散になろうはずもないのは容易に想像がつくというものである。オーレリーの母は助かったが、魔女の身の振りについてはまだ何も決まっていないのだ。
とは言え、真正面から額を突き合わせて彼らと話し合う気など、さらさら魔女にはありはしない。
何者にも束縛されない。それが、魔女を魔女たらしめる全てである。
しかし、そんなことをわざわざ力説もしない。
魔女は曖昧に笑みを浮かべ、ただ黙って頷いた。