(4)
魔女は屋敷の窓から夜空を見上げた。
空高く、細い月が浮かんでいる。
真夜中も過ぎた時間帯だ。
街全体がすっかり寝静まった頃合いになって、魔女たちはついに動き出した。
あらかじめ準備の進められていた部屋に全員が集まると、途端に窮屈に感じられる。
それも無理はない。この小さな控えの間には、領主一家と国家魔術師の二人、そして魔女に黒猫が――何より、部屋の中央に大きな魔法陣が陣取っている。
魔女の使い魔であるカラスは、屋敷の周りを警戒中だ。今から魔法陣で攻撃を仕掛ける上で、魔女たちの意識は完全に陣の中へ集中することになる。もし外部から何らかの干渉があった場合は、彼が異変を知らせてくれる手はずだった。今のところ、カラスからの連絡はない。
蝋燭に灯された炎が、頼りなげに揺れている。
魔術を使わず原始的な方法で明かりをとっているのは、とにかく目の前の魔方陣に集中するためだ。余計な魔力に気を取られることがないよう、徹底的に他の術を排除している。
「さて」
魔女は魔法陣の脇に跪いた。
懐から小さな包みを取り出すと、その中からディージアの毛髪を拾い上げ、口の中で呪文を唱える。手のひらに乗せた毛髪をふうっと一吹きすると、それは煽られて宙を舞い、やがて魔法陣の中に吸い込まれるようにして消えてしまった。
ちらり、と横目で黒猫に視線を送る。
黒猫は、分かっていると言うように、鷹揚な足取りで陣の中へと歩いていった。猫が陣の真ん中までやって来たのを見届けると、魔女は魔法陣の中で「核」となる文様に自分の右手を添えた。
瞬間、陣がまばゆい光を放つ。
魔女の後ろで、領主たちが息を呑む音が聞こえた。
魔女は目を閉じ、全神経を集中させる。
魔法陣が水面のように揺らめき始める。
(さあ、ディージアはどうしている?)
魔女の意識は、漂う魔力の海に沈みこんでいく。
とても静かな大海原だ。
魔女と黒猫以外は、誰もいない。
息遣いも聞こえない。
ただただ暗く、一筋の光も届かない世界。
(――いた!)
ちらり、とほんのわずかに瞬いた何者かの気配。
間違いない、ディージアだ。
魔女暮らしを捨てて領主に取り入っている現在、彼女も人並みの時間に眠っていたようだ。まずはそのことに安堵して、魔女は慎重に気配を手繰っていった。
だがしかし、ディージアの「気」はとてもか細く頼りない。
恐らく、彼女の眠りは非常に浅いのだろう。日に日に力を失っていく焦りで、深い眠りにつくことができないのか。それとも、魔女や国からの襲撃を警戒してのことなのかもしれない。
「……行けそうかい?」
魔女が小さく囁いた。
近くにあった黒猫の気配が微かに頷くのを感じる。
次の瞬間には、深い海は深い暗闇へと姿を変え、そこに松明の明かりがともされた。ぼんやりとした灯りが暗闇に広がり、いつの間にか、地下へと続く石造りの階段を映し出している。
その松明を掲げ、一歩一歩慎重に階段を下りているのは、オーレリーの母親の姿であった。
無論、その正体は黒猫である。
魔女自身は暗闇の中で気配を押し殺している。
オーレリーの母親――もとい黒猫は、まるで地下牢に続くかのような陰鬱な廊下を、ひたすら真っ直ぐ進んでいく。長いスカートの裾をわずかに持ち上げて歩き続けているが、その足取りはひどく重い。今にも泣き出しそうな不安げな表情、それがまるきり黒猫の演技なのだとしたら、ますます末恐ろしい使い魔だと認めざるを得ない。
やがて、長い廊下に突き当りがやってきた。
その場に佇む小さな影は。
――ディージアである。
ざわり、魔女の背中が粟立った。
「ああ、ああ。そうか、ついに来たか。ようやく、決心したのだね」
しわがれた声が、薄暗い廊下に響く。
オーレリーの母、もとい黒猫は、強張った表情で足を止めた。
黒猫が松明を掲げた先にいたのは、くすんだ赤毛の女だった。髪は長いが全く手入れをされておらず、白髪も多く交じっている。やや俯いているために、その顔はよく見えない。だが、明らかに頬はこけ、首筋には隠しようのない深い皺が幾重にも刻まれていた。まるで、王都の裏路地でその日暮らしをしている家無しの老婆のようだ。しかしそれでいて、身にまとっているのは派手な黄色いドレスときている。ドレスの袖からのぞく痩せこけた皺だらけの腕が、何とも痛ましかった。
「待ちくたびれたよ。あまりに待ちくたびれて、こんな姿になってしまった」
黒猫は、何とも応えなかった。
きっと、応えたくとも応えられなかったのだろう。こうまで赤裸々な元主の姿を見るのは、彼にとっても初めてのことだったに違いない。
「早く、早く、早く。――早く私の力を返してくれ!」
金切り声と共に、ディージアの枝のような腕が伸びてきた。
黒猫はぎくりと身を強張らせて一歩退いたが、ディージアは、その見てくれからは想像もつかないほど俊敏に距離を詰め、相手の右手を掴んでくる。
「お前の全て喰らい尽くしてやる。そしてベリアメルを超える力を手に入れる!」
「は、放して!」
黒猫は気丈にも、未だ変化を解かなかった。
思い切りディージアの手をふり解くと、今来た廊下を一目散に駆け戻っていく。
もちろん、ディージアは諦めない。すぐさま黒猫の背中を追いかけて走り出した。
――まだだ。
魔女は注意深く二人を観察していた。
あともう少し。
もう少しで、その時がやって来る。
逃げる黒猫と、追うディージア。
二人の距離はほんの少しずつ縮まっていく。それでも、すぐさま目当ての女を捕えられない焦りと苛立ち故か、ディージアの方が再び仕掛けた。
真っ直ぐ伸びた彼女の両手に、妖しい光が集中していく。
ディージアは、魔術を使って相手を捕まえるつもりなのだ。
手の中の光が大きくなるにつれて、彼女の腕に刻まれた皺がまた一段と深くなっていくのが分かる。
すでにディージアの魔力は限界を超えていた。今となっては、彼女は自らの命を削って術を行使しているのだ。
なんと憐れな。
しかし魔女は容赦しなかった。
(――今だ!)
魔女の一睨みで、ディージアの手の中の魔力が突然霧散した。
はっ、とディージアが身構えるがもう遅い。今度は魔女の魔力が彼女を捕えにかかった。
魔女が右手を突き出し呪文を唱える。直後、ディージアに異変が起こった。背中に巨岩でも乗せられたかのように、老婆の細い体が地面に崩れ落ち、そのままその場に突っ伏したのだ。うめき声と共にもがき暴れるディージアだが、その身は自由にならない。
「な、何事だ!? 女、お前、私に何をした!」
「アンタの相手は目の前のその女じゃない。――私だよ」
魔女はそう言いながら、とうとうディージアの前に姿を現した。
魔女の背に庇われた黒猫は、本来の姿に戻り、ひょいと魔女の肩に飛び乗る。
「お前は、ベリアメルの! それに黒猫――」
ディージアは、わなわなと唇を震わせた。その視線だけで、相手を射殺すことができそうだった。
「お前たち、私を嵌めたのか!!」
「魔女ディージア。ようやく状況が理解できたか」
「何故だ、何故私の邪魔をする!? お前には関係のないことだろう!」
「私にとっては、面倒なくらいに関係が大アリなんでね。アンタの元師匠は私の現師匠であり、アンタが目を付けた一家は、良し悪しは別として、一応私の『お得意様』だ。それに何より、アンタは――あの晩、私に喧嘩をふっかけた」
ディージアの顔が、より一層歪む。魔女のかけた圧が強まったからだ。
「や、やめてくれ!」
「やめろと言われてやめる馬鹿がどこにいる? 安心なさい、アンタの息の根を止めるような真似はしない。このまま、永遠に、この小さな箱庭で一人生き永らえるがいい」
言って、魔女は右手を高く掲げた。
そのまま手のひらを握り込むと、場の空気が一変する。
ぴりぴりと肌を刺すような緊張感。
心臓を鷲掴みにして身を持ち上げられるような、居心地の悪い浮遊感。
天と地が近づき、彼方の景色が迫ってくる。
何もかもがない交ぜになり――空間が、急速に収縮していく。
魔女の肩に乗った黒猫が、「にゃあ」と頼りなげに鳴いた。
そして次の瞬間、猫の声をかき消すほどの咆哮が、辺り一面に響き渡った。
「いやだ――、嫌だ! 私はまだ死にたくない! 力を失いたくない! あの女の力は私の物なんだ! 私の力を返せぇぇぇぇ!!」
ディージアの魂の叫びだった。
魔女は思わず一歩身を引いた。これほど禍々しい叫び声はついぞ聞いたことがない。
ディージアは、地面に身を縫いとめられたまま、血走った目で魔女を睨みつけた。自由にならない四肢の代わりに、錆びた赤色の毛がうねり広がり出す。蛇のように俊敏に動きながら、赤毛はあっという間に魔女の足元にまで伸び、その右足首を絡めとった。
(しまった!)
魔女は慌てて足を引こうとしたが、敵わない。これはただの髪の毛ではない。ディージアの怨嗟と、最後の魔力そのものだ。
捕えられた右足から、急速に力が抜けていく。
魔女は思わず片膝をついてしゃがみこんだ。その振動に、黒猫が肩から飛び降りる。途端、ディージアの赤毛は、かつての使い魔さえも容赦なく縛り上げ、その力を吸い取っていった。
「く……」
ディージアがのそりと上体を起こした。魔女の術による拘束が緩んだためだ。
このままでは本当にまずい。
「いい加減に、しなっ!」
魔女は、自らの右足を切り捨てるイメージを頭の中に強く焼き付け、全神経を左手に集中させた。そのまま短く呪文を唱え、ディージアに向かって手のひらを勢いよく突き出す。
瞬間、ディージアの体が棒切れのように吹き飛んだ。
魔女と黒猫を襲っていた長い赤毛が嫌な音を立てて引きちぎれ、その場に汚らしく散乱する。魔女はすかさず立ち上り、なおもディージアに追撃を試みた。だがしかし、生き物のようにうねるディージアの赤毛に阻まれてしまい、本人を捉えることができない。
このままでは埒が明かない。
魔女は、この空間を維持するために魔力の大半を使ってしまっている。だから、ディージアを一撃で仕留められるような大技を繰り出すことができないのだ。
――それでも、もはや彼女に抗うほどの力など残っていないと思っていたのに。
この憐れな女の、生と魔力への執着が、ここまでのものだったとは。
どうする。
何か。
何か、決定打となるものは――。
その時だった。
「魔女ディージア。もう、こんなことは止めなさい」
魔女のものでもディージアのものでもない女の声が、緊迫した場に割って入った。
はっとして振り返った魔女は、思わず目を見開く。
いつの間にやら、すぐ側に佇んでいたのは、オーレリーの母親その人なのだった。




