嘘つき
ふわりと懐かしい香りを感じて彼は思わず振り返った。あまり人の多くない田舎の駅で振り返った先にいるはずのない姿を探す。
半年前まで毎日のように彼を包んでいた甘い香り。それは彼女が好んで付けていた香水の香りで、最後に彼女と話をした時もこの香りは車の中を満たしていた。
別れを選んだのは彼のほうで、彼女のいる場所とは遠く離れたこの町に今更彼女が現れるわけもなく、懐かしい香りもすれ違う人と共に消えてしまった。
それも自分で選んで決めた事と、不意にこみ上げた懐かしさと大きな後悔を胸の奥へとしまい込み、大きく足を踏み出す。気を抜くと下を向いてしまいそうな頭を意識して持ち上げ家路を急いだ。
「僕と、付き合ってくれませんか?」
同僚から友達へ、友達から特別な存在へ、長い長い時間をかけて進展してきた関係を思い切ってステップアップさせるために、5回目のデートで彼は意を決してそう告げた。
彼女のアパートの前に止めた車の中では彼女の好きな男性アーティストの曲が静かに繊細なバラードを刻んでいた。一人で聴いているときには何気なく聞き流してしまうその曲はいつになく長く、ゆっくりと流れているように感じた。
彼女の答えを待つ。心臓がドクンと音をたてる。ハンドルを握ったままの右手は感覚をなくし、彼女をまっすぐに見据えるために横を向いたままの首はそのまま固まってしまうのではないかと思うほど、彼は身動きを取ることができなかった。
しばしの沈黙の後、彼女の口がゆっくりと開き、白い歯があらわになる。にっこりと、彼女は微笑んだ。
「……あたしなんかでよければ」
彼女が小さくお辞儀をすると、ふわりと甘い香りが彼を包んだ。
「バカじゃねぇの」
仕事帰り半ば強制的に連れてこられたバーで友人は思いのほか声を荒げた。
「声がでかいよ」
「お前が俺の声をでかくさせてるんだろ」
カウンターの内側でバーテンがこちらをちらりと窺う。彼は小さく会釈をしながら、申し訳ないと謝った。
「なんで別れるんだよ。お前のほうが一目惚れしてようやく付き合えるようになったんじゃねぇか」
店に着くなり注文したバーボンのロックを勢いに任せて一口で飲み切ったせいか、友人はすでに酔っているようだった。怒っているのは彼を思っての事であり、それをわかっているから彼は複雑な顔をするしかなかった。
「こないだ井上から話を聞いて俺がびっくりしたよ。お前、最近彼女に連絡もしてないんだって?」
「ああ、そうだな」
「ふざけんなよ。ついこないだまであんなに仲が良かったじゃねぇか。俺はお前が羨ましかっただぞ。一目惚れした子に何度も何度も必死にアタックして、ようやく幸せをつかんだお前がすげぇまぶしくてさ。あぁ、俺もそれくらい必死になれる恋がしたいなって本気で思ったんだ」
そう言って友人は先ほど自分で空にしたことも忘れ、グラスを口に持って行ってから「入ってねぇじゃねぇか」と理不尽な怒りをバーテンにぶつけた。
「納得がいかねぇんだよ俺は。お前が愛想を尽かされるならまだしも、なんでお前の口から別れようと思ってるなんて言葉が出てくるのか」
友人の怒りはもっともだった。だからこそその言葉はいちいち彼の胸に突き刺さり、自ら下した決断が揺らいでしまいそうになる。彼自身、本当は別れたくなんてなかったのだから。
井上真由美は彼らよりも半年ほど後に、派遣社員としてやってきた。朝礼で挨拶をする彼女を見てその場で彼は一目惚れしてしまった。稲妻に打たれたようなといった、そんな陳腐な表現を恥ずかしげもなく言えるほど衝撃的に恋に落ちてしまったのだ。
その時にも確か友人は「ばかじゃねぇの」と言っていたが、それでも頑張ってみたらいいさと、暖かく見守ってくれた。だから、友人はその後彼がどれだけ必死だったかを知っていたし、どれだけ長い時間をかけて恋人というチケットを手に入れることができたのか、その全てを知っていた。彼女を初めて見た時に「一目惚れかも」と言った彼の言葉が嘘であるはずがない。友人はそう信じていた。
「仕方がないんだよ」
困ったように笑いながら、彼はそう言うのが精いっぱいだった。
「なにが仕方ないんだよ。まだ付き合い始めて一年も経ってないだろ」
「彼女には夢があるんだ」
付き合い始めて間もなく、彼女は自分の夢を楽しそうに彼に語った。その時の顔があまりに綺麗で、あまりに輝いていたから、彼は何があっても絶対に彼女を応援しようとその時に誓った。
「だからなんだよ。そんなもんのためにお前は彼女を捨てるのか?」
「捨てるわけじゃないよ」
「おんなじことだろうが」
グラスをテーブルに叩きつけて友人はその日一番の大声で怒鳴った。
「お前はかっこよく身を引くつもりかもしれねぇけどな、そんなのは自分勝手な都合でしかねぇんだよ。田舎のおふくろさんの具合が悪いからなんだよ。そんな理由で別れを告げられるほうの身にもなってみろ」
「うちは母子家庭なんだ。大学進学と同時にこっちに出てきて、そのままこっちで就職して……もう十年近く帰ってない。せめて母さんが生きてるうちに少しでも親孝行らしい事してやりたいんだ」
母が倒れたと突然の連絡が来たのは彼女と付き合い始めてもうすぐ一年目の記念日を迎える、暑い夏の日だった。
彼が家を出て以来一人で生活していた母は、父と別れた後もシングルマザーを貫き通してきた強者で、そのため妥協を知らず、子育ての苦労を終えた後も仕事を変えることなく、それまで通りに仕事をしてきた。彼の記憶にある母はいつも豪快に笑っていて、病気なんかとは一番縁遠い存在のように思えたが、本人も気づかぬままゆっくりと確実に病魔は体を蝕み、ついにその時が来てしまった。今にして思えば若いころから体に無理を強いてきたのだから、いつ倒れてしまっても不思議はなかったのだ。
幸い仕事中に倒れたためすぐに救急車を呼ぶことができたおかげで大事に至ることはなかったが、もし家に一人でいるときに倒れていたらと思うと彼はいてもたってもいられなくなった。
玄関のドアを開ける。母が父と別れてから少ない貯金をはたいて買った家は小さく、ドアは開けるたびに小さな悲鳴を上げる。それは昔と何ら変わりがなく、今でもこのドアを開けると少し懐かしさがこみ上げた。
「ただいま」と声をかけると、母は台所に立ち、せわしなく料理をしていた。
「お帰り」と豪快な笑顔を見せる。また一緒に暮らすようになってだいぶ見慣れたとはいえ、その顔は彼の記憶にある母からは想像もつかないほどやつれていて、久しぶりに見た時には泣きそうになった。
「あんまり動いちゃダメだって言ってるだろ」
鞄をテーブルの上に置き、台所から母を追い出す。後は自分がやるから、と。
「そうは言ってもねぇ。やることがないと暇で暇で……」
「横になってテレビでも見てたらいいだろ?」
「そんなの、あたしの性に合わないよ。なんかしてないと不安でねぇ」
僕のほうが不安だよ。そう言いそうになって彼は言葉を飲み込んだ。
「そんなに元気なら帰ってくる必要なかったな」
天ぷら鍋に菜箸を入れながらそう言うと、テーブルに着いた母は一言「嘘つき」と言った。
「え?」
「相変わらずあんたは嘘が下手だね。そんなんじゃいつまでたっても人を騙せないよ?」
「騙すつもりなんか、ないよ」
「嘘つき」
母が倒れたと連絡を受けてから2週間後、彼は彼女を呼び出した。本当はこの2週間会いたくて会いたくて仕方がなかったが、仕事の後は母の会社の人間とのやり取りや、病院とのやり取りに時間を取られ、連絡することもままならずもどかしさだけが募っていった。
付き合い始めてからこんなに長い期間会わない事なんて初めての経験で、彼女に会えないというだけでこんなにも寂しくなってしまうのだと気づいた。担当する仕事は違えど同じ会社で働いているのだから仕事中何かしらの理由を付けて話をすることはいくらでもできた。しかしほんの数日話ができないというだけで寂しさがあふれてしまうほど自分は彼女の事が好きなのだと、改めて気付いてしまった。だから、彼はあえてきっぱりと「別れよう」と言った。
「好きな人ができたんだ」
「嘘つき」
三角に釣り上げた大きな瞳を滲ませながら、彼女は絞り出すようにそう言った。
広い公園の駐車場に止めた車内には、彼女に告白をしたときと同じように、あのアーティストのバラードが静かに流れていた。あの時はこの繊細なバラードが二人の間にゆったりとした時間をもたらせてくれたが、今改めて訊くとその曲は離れ離れになってしまった恋人を強く思う女性の気持ちを歌っていて、切ない歌詞が余計に涙を誘っているかのようだった。
「ホントの事言ってよ」
「嘘じゃないよ。会社も辞めようと思ってる。キミとも、ここでお別れだ」
一言発するごとにはち切れそうになる胸を必死に抑えて平静を装う。
実家に帰って母の看病をする。そう決めた時点で会社は辞めざるを得ない。本当の事を言って、彼女の理解を得ようとも考えた。でもたった2週間会えないだけでたまらなく寂しくなってしまう自分はきっと彼女を置いて行けない。でもこの街で夢がある彼女をもし連れて行ってしまったら? 夢を語っていた時の彼女の輝きを自分が奪ってしまったら? そんなことをしたらきっと彼女に対して罪悪感を抱いてしまう。そうしたらこれまでのように心の底から彼女に想いを伝えることはできなくなってしまうかもしれない。
そしてこの2週間悩みに悩んだ挙句、彼は別れることを選んだ。決心したつもりで別れようと言ったのに、言った途端に喉が絞まり、次の言葉が継げなくなっていた。
沈黙のまま二人は互いの目を離すことなく見つめあっていた。丁度一年前、告白して答えを待っていた時の希望に満ちた緊張感とは全く正反対の、切なさに満ちた重い緊張感が車内に漂っていた。目の端に涙をためて彼女は彼の目を見る。奥歯を必死に噛みしめて彼は彼女の目を見た。
果たして、あふれる寸前で堪えていた涙が一粒ほろりと落ちると、彼女は小さな声で「信じられない」と言い残して助手席のドアを開けた。
「一発殴っていいか?」
バーボンロックの3杯目を飲み干した友人はすっかり座ってしまった目で彼を睨んだ。
「え?」と訊き返す間もなく友人の右手が彼の左頬を打ち抜いた。
少し背の高い椅子から転げ落ち、頭をしたたかに打つ。あまりに一瞬の出来事で、まるで急激な速度で世界が回ったかのようだった。
「いってぇ。なんだよ硬い顔面だな右手がいてぇじゃねぇか」
「そんなの知るかよ。いきなり殴られた僕のほうが痛いだろ」
「うるせぇな、人を殴るなんて初めてだから手首ぐりってなったんだよ」
左の頬をさすりながら立ち上がる。幸い狭いバーの店内には彼らのほかに客の姿はなく、バーテンが迷惑そうにこちらを見ていること以外誰にも迷惑をかけてはいなかった。
「ちくしょう。お前なんか殴って損した」
「悪かったな殴り損させるほど硬い顔面で」
「お前には愛想が尽きた。もうどこへなりとも行っちまえ。俺はもう知らねぇ」
右手首をさすりながら友人は吐き捨てるようにそう言って彼に背を向けた。
「あんた、ぼーっとしたまま洗い物なんかしてお皿割ったりしないでよ?」
母に声をかけられて彼は自分が半年前の事を思い出していた事に気付いた。流しには夕食に使った食器の残りが、出しっぱなしの水道に打たれながら洗われるのを今か今かと待っている。
「ぼーっとなんてしてないよ。洗い物ももうすぐ終わる」
「たったそれだけの洗い物するのにいったいどれだけ水を使うつもりかねぇ」
ソファの背もたれに肘をついて母はじろりと彼を見据えた。
「あんたに嘘は似合わないよ」
「またそれか。嘘なんかついてないよ」
「あんたに一ついいことを教えてあげる」
不意に真面目な顔をして、母は今まで見ていたテレビを消し、彼のほうへ向きなおった。その目が嫌に真剣だったので、彼は洗い物をするふりをして目をそらす。
「後悔ってやつは人生をダメにするよ。それが小さな後悔ならいい。例えば昼飯をラーメンにしようかカレーにしようか悩んで、ラーメンを選んだけどカレーのほうが美味しそうだったとか、そんな些細な後悔ならすぐに忘れることができるだろ? でも、大きな後悔ってやつはたちが悪いんだ。いくら忘れようとしてもそいつは記憶の端っこにいつまでもしがみついて離れやしない。時間が経って普段は思い出すことがなくなったとしても、ふとした瞬間にそいつは卑しく顔を出すんだ。そうしたら最後さ、また思い出してうじうじと考えちまうんだ。いいかい? 大きな後悔はするもんじゃないよ」
「なんの話だよ」
最後の皿を洗い終えて水切り籠に入れる。急に心の中を見透かされたようでその手は少し震えていた。
「年長者の貴重な助言だよ。しっかり聞いときな」
「じゃあ、聞くけど年長者様の大きな後悔ってなんだよ?」
「父さんと別れた事さ」
事も無げにさらっと母の口から出た言葉に彼は驚いた。豪快で強い母しか見たことのない彼にとって、母の口からそんな言葉が出ること自体信じられなかった。
「未だに後悔してるよ。わたしが離婚したせいであんたには特に金銭面で随分と肩身の狭い思いをさせちまったからねぇ」
「なんだよ、そんなこと……」
「後悔の厄介なところは、時間が経てば経つほどに取り返しがつかなくなるところさ。いくら自分に嘘をついたところで絶対に後悔はなくなったりしないんだよ」
そう言って母はようやく彼から目をそらした。しかしその目に寂しさがありありと見てとれたことが彼の不安をやけにつついた。が、次の瞬間にはまたテレビをつけ、映し出されたお笑い番組に大声を上げて笑い出した。
「なんなんだよ一体……僕は部屋に戻るからね」
手を拭き、台所を後にすると、リビングで母が小さく咳をした。心配をかけないように母は彼が家にいる間は気づかれないように小さく咳をする。どんなに普段通りに振る舞っていてもやはり一度倒れてしまった体は辛いのだ。
「後悔先に立たずってねぇ」
部屋に戻る途中、母の声が聞こえたような気がした。
部屋に戻ると暗い部屋の隅で、充電器に差したままの携帯電話が小さなランプをチカチカと点滅させて着信を知らせていた。
明かりをつけて、ベッドに座り携帯電話を取る。開くと懐かしい名前からのメールが一件届いていた。
件名はなく、簡素な文章が2列だけのメールはいかにもあの友人らしいひねくれた内容だった。
「やっぱりお前の事は嫌いだ。もう一発殴りたいからたまにはこっちにも帰って来いよ」
半年前殴られた左頬をさする。もう殴られるのは御免だ、と彼は笑った。
小さな声で「信じられない」と言って、彼女は助手席のドアに手をかけた。
その瞬間、彼女と出会ってからの長い長い年月が走馬灯のように蘇った。
初めて見た時に衝撃的なほど目を奪われたこと。
ゆっくりと助手席のドアが開く。
何度も話しかけようとしては勇気を出せず声をかけられなかったこと。
車内を満たしていた甘い香りをかき消すように冷たい空気が入り込んでくる。
初めて言葉を交わした日の事。
彼女が背を向ける。
仲間たちと一緒に飲みに行った日、彼女を見すぎてからかわれたこと。
長い髪が風に揺れる。
初めて二人きりで会うことになった前の日、緊張のあまり眠れなかったこと。
彼女の足が外に出る。
彼女に告白して、答えを待っていた時のドキドキ。
所主席のシートから腰が浮く。
初めて手を繋いだ日、初めてキスをした日。初めて一夜を共にした日。その全てに彼を見つめる笑顔の彼女がいた。
彼は思わず彼女の右手を掴んでいた。今まさに終わりを迎えようとしたその時になって無意識のうちに「嘘なんだ」と叫んだ。
「全部嘘なんだ。好きな人ができたっていうのも、キミと別れるために会社を辞めるっていうのも全部嘘なんだ」
吐き出すようにそう叫んで我に返り、彼はハッとした。今の今まで別れを決意していたくせに、いざ彼女が出ていくときになって寂しさに負け、その手を掴んでしまった自分に呆れ、大きな後悔が押し寄せた。
「嘘つき」
そう言って彼女は掴まれた右手を振りほどき、もう一度シートに座りなおした。
「全部知ってた。あるお節介が教えてくれたから。だから、あたしも今日は色々覚悟してきたんだよ」
あるお節介の顔が頭に浮かぶ。つい先日殴られた左の頬が少し痛んだような気がした。
「あたしは、この街を出る気はないよ」
「わかってる。夢があるもんな」
「でも、キミにはたった一人のお母さんを大事にしてほしい」
助手席のドアを閉めて彼女はしっかりと彼の目を見た。先ほどまで三角に吊り上がっていた目は、いつもの優しく丸い目に戻っていた。
「キミが最後まで嘘を付き通すつもりなら、あたしも嘘を付き通すつもりだったのに」
「僕の嘘はバレバレだった?」
「わかりやす過ぎるんだよ。キミは嘘を付くときいつも泣きそうな顔になるから」
そう言われて初めて彼は、自分の顔がどんな顔だったのかを理解した。きっと眉は下がり、声が出せないから唇は固く結ばれ、なんとも情けない顔になっていたに違いない。
「本当は別れたくないんだ。キミと離れ離れになってしまうと思うだけで心がバラバラに砕けてしまいそうになる」
「簡単には会えなくなるかもしれないけど、繋がっていることはできるよ。それがたとえどんな形でもね」
そう言って彼女は彼の左手に右手を重ねた。彼はその手を強く握り、また彼女も強く握り返した。
「約束して? キミの嘘はすぐわかるんだから、もうあたしには絶対嘘をつかないって」
「うん。約束するよ。もう二度とキミに嘘はつかない」
「嘘つき」
彼女に笑顔が戻ると、ふわりと甘い香りが彼を包んだ。