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死霊術師(ネクロマンサー)は、今日も未練を拾います。  作者: 吉良


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第一話 再誕(メザメ)

俺は、自分が優しい人間だとは思っていない。


 たぶん、これをリシアに言ったら怒られる。


「そういうところが優しいの!」


 とか、そんな感じで。


 でも、自分で自分のことを優しいと思っている奴って、なんとなく信用できないだろ?


 だから俺は、少なくとも自分をそうは呼ばない。


 ただ――目の前で腹を空かせている子どもがいたら、自分のパンくらいは渡す。


 それだけだ。


 ここはアルヴァーン王国の片田舎、ハイル村。


 村の端にある小さな教会と、その裏に建つ孤児院が、俺の家だ。


 俺たちは毎朝、その孤児院の食堂で同じテーブルを囲んで飯を食う。


「ラフィ兄ちゃん?」


 向かいに座っていたミナが、俺の皿と自分の皿を交互に見た。


 ついさっきまで俺の皿にあったパンが、半分ほどそっちへ移っている。


「食え」


「でも、ラフィにいの分……」


「昨日食いすぎた。腹減ってない」


「嘘」


 即答だった。


 五歳児は妙なところで勘が鋭い。


 そして、こういう時に限って余計な人間も聞いている。


「嘘ですね」


 ほら。


 食堂の奥から声が飛んできた。


 振り返ると、鍋を片づけていたセシリアがこちらを見ている。


 セシリア・アルディン。


 この教会を預かっている人で、俺を育ててくれたヨハネス爺さんの一人娘だ。


 二十四歳。


 俺より六つ上。


 爺さんが死んでからは、教会も孤児院も、ほとんどこの人が切り盛りしている。


 血は繋がっていない。


 でも俺にとっては、まあ――姉みたいなものだ。


 本人には言ったことがない。


 言ったらたぶん喜ぶ。


 なんとなく悔しいから言わない。


「昨日の夕食、一番少なかったのはラフィでしょう」


「覚えてない」


「私は覚えています」


「そうか」


「そうか、じゃありません」


 隣でリシアがため息をついた。


「ほんっと、昔から変わらないよね」


「何が」


「そういうところ」


 リシア・フェルン。


 俺と同じ十八歳。


 五歳の頃から一緒に育ってきた幼なじみだ。


 魔物に襲われて家族を失ったあと、この教会に引き取られた。


 それから十三年。


 長い。


 下手をすると、俺より俺のことを知っているんじゃないかと思う時がある。


 もちろん本人には言わない。


 絶対に調子に乗るからな。


「何だよ」


「別に?」


「なら見るな」


「見てないし」


「見てただろ」


「はいはい」


 適当にあしらわれた。


 こういうところも昔から変わらない。


 そういえば。


 俺自身のことをまだ話していなかった。


 俺の名前はラファエル・ハイル。


 十八歳。


 みんなからはラフィと呼ばれている。


 ラファエルなんて立派な名前は、正直俺には似合わない。


 名付けたのはヨハネス爺さんだ。


 俺は赤ん坊の頃、この教会に拾われたらしい。


 両親の顔も知らない。


 どこで生まれたのかも知らない。


 だから俺にとっては、ここが家だ。


 もっとも。


 俺が拾われた頃から孤児院があったわけじゃない。


 昔、この場所にあったのは、小さな礼拝堂と司祭一家が暮らすための居住区くらいだった。


 そこに爺さんが、行き場のない子どもを見つけるたびに連れて帰ってきた。


 まず俺。


 次にリシア。


 しばらくは教会の空き部屋を使えば何とかなっていたらしい。


 転機になったのがノアだ。


 七年前。


 父親を事故で、母親を病気で亡くした八歳のノアに、引き取り手がいなかった。


 爺さんはいつもの調子で言った。


「では、うちに来ればいいでしょう」


 当然、セシリアに怒られた。


『お父さん、今度はどこで寝かせるつもりですか』


『物置を少し片づければ――』


『子どもを物置で寝かせないでください』


 俺もリシアも、その場にいた。


 当時十一歳。


 今思えば、どう考えてもセシリアの方が正しい。


 それをきっかけに、教会の裏へ子どもたちが暮らすための建物を造ることになった。


 村の大工が手を貸した。


 木こりが材木を譲ってくれた。


 農家のおばさんたちが建設中の飯を作った。


 俺とリシアも、水を運んだり木材を引っ張ったりした。


 一度、二人で柱を落として爺さんに笑われた。


 その柱には今も傷が残っている。


 そうやってできたのが、今の孤児院だ。


 二階建ての木造。


 一階には食堂と厨房、それから皆で使う共同室。


 二階には子どもたちの寝室。


 裏には小さな畑と鶏小屋。


 少し離れたところに井戸と薪置き場。


 立派な建物じゃない。


 冬になれば隙間風が入る。


 雨が強ければ、屋根の一部から水も落ちる。


 それでも俺たちにとっては家だ。


 今、この孤児院で保護されている子どもは九人。


 十五歳になったノアが一番上。


 俺とリシアは、もうその九人には数えられていない。


 この辺りじゃ、十六を過ぎれば自分で働く年齢だ。


 俺たちも二年前に、養われる側を卒業した。


 セシリアには、


「もう、自分の生活を始めてもいいんですよ」


 と言われたことがある。


 でも。


「ここが俺の家だろ」


 と返した。


 別に格好いいことを言ったつもりはない。


 家に住んで。


 家のために働く。


 普通だろ?


 だから今の俺は、畑を手伝って、薪を割って、壊れたところを直す。


 村に日雇いの仕事があれば働く。


 リシアも料理や洗濯、裁縫をしながら年下の面倒を見る。


 給料をもらっているわけじゃない。


 働いて。


 ここで飯を食って。


 ここで寝る。


 俺としては十分独り立ちしているつもりだ。


 セシリアだけは、どうもそう思っていないらしいけど。


 それと。


 俺にはもう一つ、人と少し違うところがある。


 俺は、死者の声を聞くことがある。


 ……こう言うと、大層な力に聞こえるかもしれない。


 実際はそうでもない。


 火は出せない。


 水も操れない。


 身体強化もまともにできない。


 光も闇も駄目。


 魔術師として見れば、たぶん落第点だ。


 そのくせ、死んだ人間の声だけは昔から聞こえた。


 死者が残した感情に触れることもある。


 どうしてなのかは知らない。


 ヨハネス爺さんは、


「そういうこともあります」


 で済ませていた。


 あの爺さん、妙なところで適当だったんだよな。


 その日の朝も。


 俺はいつも通り自分のパンを分けて、いつも通りセシリアに小言を言われた。


 ここまでは、いつも通りだった。


 問題はその後だ。


     ◇


「このままだと、冬を越せません」


 朝食が終わったあと。


 教会の小部屋に呼ばれた俺とリシアに、セシリアはそう言った。


 机の上には帳簿が広げられている。


 細かい数字が並んでいた。


 正直、俺はああいうものが得意じゃない。


 でも、赤い印が多い時は大体ろくな話じゃないことくらい分かる。


「そんなに?」


 リシアが尋ねた。


「ええ。食料だけなら、かなり切り詰めれば何とかなるかもしれません。でも薪が足りません。屋根の修繕も必要です。それに――薬代も」


 薬。


 昨日から熱を出しているソフィの顔が浮かんだ。


 七歳。


 怖がりなくせに、具合が悪い時ほど「大丈夫」と言う。


 全然大丈夫じゃない顔で。


「いくら必要なんだ」


「すぐに用意できる額ではありません」


「仕事を増やせば」


「増やせる仕事があるなら、とっくに増やしています」


 それはそうだ。


 ハイルは小さな村だ。


 この教会だって、村人から多額の金を集めているわけじゃない。


 野菜を分けてもらったり。


 猟師が余った肉を持ってきたり。


 古着を譲ってもらったり。


 その代わり、セシリアが簡単な治療をしたり、俺たちが農作業を手伝ったりする。


 持ちつ持たれつ。


 そんな村だ。


 でも。


 ないものは、ない。


 ヨハネス爺さんが生きていた頃は、長年の知り合いや近隣の教会を頼って、足りない分をどうにかしていたらしい。


 爺さんが死んで、それも少しずつ難しくなった。


 セシリアが悪いわけじゃない。


 爺さんが見えないところで随分無茶をしていたんだと思う。


 金がない。


 仕事もない。


 でも冬は来る。


 世の中、待ってほしい時ほど待ってくれない。


「森、行ってくる」


 俺がそう言うと、リシアがすぐ眉を寄せた。


「薬草?」


「ああ」


「奥まで行く気じゃないよね?」


「行かない」


「本当に?」


「本当に」


 この時点では、本当にそう思っていた。


 結果だけ見れば、まったく説得力はないけど。


「暗くなる前には戻ってきてください」


 セシリアが言う。


「分かった」


「危ないと思ったら、何も採れなくても戻ること」


「分かった」


「夕食までには?」


「戻る」


 そこまで言って、ようやくセシリアは頷いた。


 リシアはまだ納得していない。


「……私も行こうか?」


「孤児院の手伝いは?」


「それは……」


「じゃあ残れ」


「でも」


「薬草を採るだけだ」


 そう言うと、リシアはしばらく俺を見た。


「絶対帰ってきてよ」


「帰る」


 この時の俺は、ちゃんと帰るつもりだった。


 いや、本当だぞ。


     ◇


 森に入って一時間ほど。


 収穫は、まあ普通だった。


 高く売れる薬草が山ほど採れた――なんて都合のいい話はない。


 むしろ少ない。


「……これじゃ足りないな」


 背負った籠を下ろし、中を見る。


 薬草が何束か。


 村で売れば、数日分の食費にはなるかもしれない。


 でも屋根は直らない。


 ソフィの薬代にも足りない。


 もちろん薪にもならない。


 もう少し奥なら。


 そう考えた。


 念のため言っておくけど、俺だって危ないことが好きなわけじゃない。


 命は惜しい。


 痛いのも嫌だ。


 ただ。


 戻ったところで金が増えるわけじゃない。


 だから少しだけ。


 本当に少しだけだ。


「この辺なら、まだ奥じゃない」


 誰に言うでもなく呟く。


 こういう独り言を言い始めた時点で、たぶん引き返した方がいい。


 今なら分かる。


 当時の俺には分からなかった。


 森は進むほど静かになっていった。


 鳥の声が減る。


 風の音も妙に遠い。


 木々の間から差し込む光まで薄くなっている。


「……戻るか」


 ようやくそう思った。


 その時だった。


 枝が折れる音がした。


 一度。


 二度。


 三度。


 右。


 左。


 前。


 多い。


 俺はゆっくり腰のナイフへ手を伸ばした。


 別に戦うためじゃない。


 戦えるわけがない。


 ただ、何も持っていないよりは気分がましだからだ。


 茂みが揺れた。


 姿を現したのは――角狼。


 ホーンウルフとも呼ばれる、森ではそれほど珍しくない魔物だ。


 灰色の毛並み。


 普通の狼より一回り大きな身体。


 そして名前の通り、額から伸びた短い角。


 森へ入る人間なら、子どもでも名前くらいは知っている。


 一頭なら、腕の立つ猟師でも対処できる。


 もちろん。


 俺には一頭でも無理だ。


 一頭。


 二頭。


 三頭。


「……四」


 背後にもいる。


 群れになると、角狼は一気に危険になる。


 まして戦えない俺が囲まれた時点で、選択肢なんて最初から一つしかない。


「逃げる」


 地面を蹴った。


 背後で唸り声が上がる。


 走る。


 枝を避ける余裕なんてない。


 顔に当たる。


 肩にも当たる。


 痛い。


 でも立ち止まるよりはましだ。


 角狼の足音が近づく。


「速すぎだろ……!」


 横から一頭が飛び出した。


 咄嗟に身を捻る。


 爪が上着を裂いた。


 勢いのまま地面を転がる。


 籠が背中から外れ、せっかく集めた薬草が散った。


「あ」


 一瞬だけ見た。


 いや、見るな。


 薬草より命の方が高い。


 ……たぶん。


 俺は立ち上がって走り続けた。


 もう道なんて分からない。


 村がどっちかも怪しい。


 とにかく角狼から離れる。


 それだけ考えていた。


 低い枝を腕で払いのける。


 息が切れる。


 肺が痛い。


 背後の唸り声は消えない。


 むしろ近づいている。


 その時。


 木々の向こうに、石造りの壁が見えた。


 何の建物なのか考える暇なんてなかった。


 入口がある。


 それだけで十分だった。


 俺は地面を蹴る。


 木々を抜ける。


 古びた建物の正面。


 半ば朽ちた木製の扉へ飛びつき、そのまま中へ転がり込んだ。


 振り返る。


 扉を引く。


 閉まりきる、その直前。


 凄まじい衝撃が来た。


「っ……!」


 扉が押し返される。


 隙間から牙が見えた。


 俺は肩を押し当て、全体重をかける。


「入って、くんな……!」


 腕が震える。


 向こうも押す。


 爪が扉を引っ掻く音が耳に響く。


 押し返す。


 あと少し。


 勢いをつけて扉を閉じた。


 すぐ横を見る。


 太い木製の閂。


 考えるより先に手を伸ばす。


 落とす。


 がん、と鈍い音。


 直後。


 外から再び体当たり。


 扉全体が揺れた。


「っ……」


 二度。


 三度。


 古い蝶番が悲鳴を上げる。


 そこで初めて、俺は周囲を見た。


「……聖堂?」


 小さな石造りの礼拝堂だった。


 入口から奥へ向かって細長い。


 左右の壁には細い窓。


 そこから僅かに光が差し込んでいる。


 壁沿いには古びた木製の腰掛けが数脚。


 奥には簡素な祭壇。


 大勢が集まるような場所じゃない。


 せいぜい十人か二十人も入ればいっぱいだろう。


 天井の一部は崩れ、床には砂や枯れ葉が入り込んでいる。


 長いこと使われていない。


 そう見えた。


 でも。


「……変だな」


 完全に放置されているわけじゃない。


 祭壇の周りには、ほとんど苔がない。


 窓際には埃が積もっているのに、中央の床には薄いところがある。


 人が通った跡。


 誰かが、時々ここへ来ている。


「誰かいるのか?」


 返事はない。


 代わりに。


 どんっ。


 扉が揺れた。


 閂が軋む。


 今は考えている場合じゃない。


 出口を探す。


 左右にはない。


 奥の祭壇へ向かう。


 その脇。


 壁際に、地下へ続く石段があった。


 暗い。


 先が見えない。


 本音を言えば、入りたくない。


 でも。


 背後でまた扉が揺れた。


 閂の端が欠ける。


 前は地下。


 後ろは角狼。


 選択肢になってないだろ。


 俺は階段へ足を掛けた。


 一段。


 二段。


 その瞬間だった。


 足が止まった。


「……え?」


 いる。


 いや。


 違う。


 この感覚は知っている。


 生きているものじゃない。


 死者だ。


 俺は昔から、人が死んだ場所が分かることがある。


 声が聞こえることもある。


 残った感情に触れることもある。


 ヨハネス爺さんが死んだあとだって、しばらく話をしていた。


 だから死者そのものは怖くない。


 でも。


 これは、今まで感じたものとまるで違った。


 強い。


 地下の奥。


 もっと先。


 何かが残っている。


 どれほど長くそこにいるのかは分からない。


 ただ。


 途方もない時間。


 ずっと。


 その意思だけが残り続けている。


「何なんだよ……」


 上で木が割れる音がした。


 閂が持たない。


「……行くしかないか」


 俺は階段を駆け下りた。


     ◇


 地下は、地上とは様子が違った。


 石造りの通路。


 壁には古い紋様。


 ところどころに、魔術式らしきものが刻まれている。


 地上は崩れかけていたのに、地下は妙に状態がいい。


 湿ってはいる。


 古くもある。


 でも荒れ果ててはいない。


 俺には理由が分からなかった。


 魔術式についても同じだ。


 何が書いてあるのか、さっぱり分からない。


 さっきも言った通り、魔術全般については本当に才能がない。


 火も出せない。


 水も出せない。


 身体強化もまともにできない。


 光も闇も駄目。


 そのくせ、死者の声だけは聞こえる。


 便利かと聞かれると、そんなに便利でもない。


 死人に薪割りは頼めないからな。


 ……まあ。


 この日のあと、その認識は大きく変わることになるんだけど。


 通路の突き当たり。


 重い扉があった。


 わずかに開いている。


 そこを抜ける。


 小さな墓所だった。


 中央には石棺。


 その脇には、鞘に納められた一本の長剣。


 装飾は古びているのに、剣そのものは不思議なくらい傷んでいない。


 墓前には墓石。


 そして。


「……花?」


 赤い花が一輪、供えられていた。


 すでに乾いている。


 細長い茎。


 剣みたいに伸びた葉。


 ここへ来るまで、そんな花は一度も見ていない。


 何百年も放置されていたものじゃない。


 墓石も同じだった。


 古い。


 文字も擦れている。


 それでも苔は丁寧に落とされている。


 ここだけは、地上の聖堂より明らかに手入れされていた。


 誰かが、この墓を今も守っている。


 俺は墓碑へ目を向けた。


 古い文字。


 擦れている部分も多い。


 名前らしきものも刻まれているが、俺にはまともに読めなかった。


「……誰の墓だ?」


 もちろん返事はない。


 詳しく調べる暇もなかった。


 背後から低い唸り声が響いた。


 振り返る。


 角狼が二頭。


 通路の向こうから、ゆっくり姿を現した。


「追いついたか」


 逃げ道はない。


 石棺の後ろは壁。


 左右も塞がれている。


 俺はナイフを抜いた。


 小さい。


 本当に小さい。


 角狼の牙の方が長いんじゃないか?


「……まあ」


 笑うしかなかった。


「ないよりはましか」


 たぶん死ぬ。


 そう思った。


 怖くないわけじゃない。


 怖いに決まっている。


 でも、その時真っ先に浮かんだのは自分のことじゃなかった。


 セシリアに怒られるな、とか。


 リシアに帰るって言ったな、とか。


 ソフィの薬、どうするんだ、とか。


 ノアたちの冬、どうするんだ、とか。


「……最悪だな」


 死ぬ時まで家の心配か。


 もう少し格好いいことを考えたかった。


 角狼が腰を落とした。


 飛びかかる構え。


 俺もナイフを構える。


 その時だった。


 背中。


 石棺の向こうから。


 触れた。


 声じゃない。


 言葉でもない。


 でも分かる。


 ――まだ。


 俺は振り返った。


 ――まだ、終われない。


 強い。


 さっきまで感じていた死者の気配。


 それが石棺の中にある。


 死んでいる。


 完全に。


 それなのに。


 まだ、この世界に手を伸ばしている。


 ――立ち上がりたい。


 何のために?


 誰のために?


 分からない。


 でも。


 その感覚だけは、妙に理解できた。


 やり残したことがある。


 だから終われない。


「……そうか」


 俺は石棺へ手を置いた。


 普通なら、死者を起こそうなんて思わない。


 ヨハネス爺さんにも言われた。


 死者には残る自由がある。


 そして、去る自由もある。


 だから無理に引き留めるな、と。


 でも。


 こいつは去っていない。


 少なくとも、俺にはそう感じた。


「お前も」


 角狼が走り出す。


「まだ終わってないんだな」


 手のひらが熱くなった。


 いや。


 熱とは違う。


 胸の奥から何かが流れ出していく。


 魔力。


 たぶん。


 俺には普通の魔術がまともに使えないから、比較はできない。


 ただ、この時だけは分かった。


 俺の中にある何かと。


 棺の中に残っている何かが。


 繋がった。


 角狼が飛びかかる。


「だったら――」


 石棺の中から音がした。


 ご、と。


 重い石が動く音。


 同時に。


 それまで石棺の中にあった死者の気配が、一気に形を持った。


 どうやってそうなったのかは分からない。


 後から考えても分からない。


 ただ。


 骨だけだったはずの何かに、肉が。


 皮膚が。


 髪が。


 失われたはずの身体が戻っていくような感覚だけが、俺の手を通して伝わってきた。


 俺は叫んだ。


「起きろ!」


 石蓋が内側から弾けた。


 その瞬間。


 石棺の脇に置かれていた長剣へ、白い手が伸びる。


 銀色の線が走った。


「……は?」


 何が起きたのか、俺には見えなかった。


 飛びかかってきた角狼が床へ落ちる。


 その後ろの一頭も。


 一歩。


 二歩。


 剣が振られる。


 それだけ。


 さっきまで俺を追い回していた魔物たちが、あっさり倒れた。


 静かになった。


 本当に突然だった。


 石棺の前に、一人の男が立っている。


 金色の髪。


 血の気のない白い肌。


 右手には、墓に納められていた長剣。


 そこにいるのは、間違いなく人の形をした何かだった。


 触れられそうなほど確かな身体を持っている。


 でも。


 生きてはいない。


 それだけは、俺には分かった。


 男は周囲を見回した。


 倒れた角狼。


 自分の剣。


 自分の手。


 それから、俺。


 しばらく目を瞬かせたあと、少しだけ首を傾げる。


「……ん? お前、誰だ?」


 俺も同じくらい黙った。


 言いたいことはいくつもあった。


 でも、一番最初に口から出たのは――


「それは、こっちの台詞だ」

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