↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
85/85

第84話 外国の眼と達成

夏の午前、宰相府の大広間に、四ヶ国の使節団が並んでいた。


 レガリオン、コヴァルド、マルカ、エテルネア。各国から技術使節が二名ずつ、計八名。ザフィールは別途の招待だった。——八つの顔が、テーブルの向こう側に並んでいた。


 カイルは大広間の端に立って、八つの顔を見た。人間族の顔が二つ。鉱人族の顔が二つ。獣人族の顔が二つ。妖霊族の顔が二つ。——この大広間に、四つの種族が一度に並んだのは、独立以来初めてだった。





 午前は研究機関の視察だった。


 ヴァレンが案内した。若手研究者の机の上の新しい設計図。複合化の試作品。四相モデルの図が壁に掛けられた教室。——使節団は静かだった。見ているものが、自分たちの国にはないことが分かる静かさだった。


 午後は学院の視察だった。


 学生たちが実習室で炉を動かしていた。第二期生の中に、コヴァルドからの留学生が一人いた。鉱人族の若い男だった。その若者が炉の温度を指先で確かめている姿を、コヴァルドの使節が長い間見ていた。





 視察の途中で、レガリオンの使節の一人が小さく呟いた。


 「我々の魔素操作は、何かが足りない気がする」


 声は小さかった。カイルには聞こえなかった。——だがケルヴェンには聞こえていた。ケルヴェンは三歩後ろで、帳面に一行書き留めた。





 視察後の懇談会で、エテルネアの使節がカイルに近づいた。年配の妖霊族の男だった。エリアの学術院の教授の世代の人物だった。——エリアも今日は、学術院の派遣研究員として懇談会の一角にいた。使節の老人とは、会場の入り口で短い挨拶を交わしていた。二人の視線の動きに、学術院の内側の人間同士の間合いがあった。


 「宰相殿。今日は貴重な視察をありがとうございました」


 「学ぶものがありましたか」


 老人は一度だけ微笑んだ。微笑みの中に、悔しさのような、尊敬のような、複雑なものが混じっていた。


 「我々は石を持っています。貴国から買った記録石が、学術院の書庫にも入りました。——だが、あなた方は石を書く者を持っている」


 カイルはその言葉を、一瞬だけ体の中で止めた。


 「追いつけないと、今日分かりました」


 老人の声は静かだった。敗北の声ではなかった。——認めた、という声だった。自分の国にはない何かが、この国にはある、ということを。


 老人の視線が一度、会場の端のエリアの方へ動いた。エリアが小さく頷いた。その頷きは、報告のつもりの頷きだった。学術院から派遣された研究員が、任地の国で見ているものを、学術院の代表に伝える視線の合図だった。


 老人はカイルに向き直った。


 「一つだけ、お願いがあります。——エリアの共同研究の枠組みを、来年度も延長させていただきたい。三年分の観察記録は、学術院の先師の代の資料にも呼応する形が出ています。もう数年、彼女の目を貴国の畑に置かせていただきたいのです」


 「本人と相談します」


 「御本人は続けたい、と聞いております」


 老人は微笑んだ。その微笑みには、政治の色は混じっていなかった。学者が学者の仕事の続きを願う時の、純粋な色だった。





 夜、ケルヴェンが報告した。


 「使節団の中で、魔素操作の効率について疑問が出ています。レガリオンの使節が、記録石の使用効率が想定より低いと言っていました」


 「効率が低い」


 「人間族の魔素操作師が、竜人族の魔素操作師と同じ記録石を使っても、移管の完成度が異なるようです。——親和性の差が、出始めています」


 カイルはその報告を聞いた。親和性の差。——四年前に研究機関で体系化した受容系親和性の種族差が、実地で表面化し始めている。


 解決策は、今の段階では思いつかなかった。——だが、問題としては認識した。認識を紙の端に置いた。





 ケルヴェンの報告の後、ヴァレンとロランが相次いで宰相府の小部屋に入ってきた。


 「お時間をいただけますか」


 ヴァレンが先に切り出した。


 「春に、学院の三階で、カリキュラムのことを申し上げました。あの時は『時期が来たら』と申し上げました。——今日、時期が来たと思います」


 カイルは頷いた。


 「内容を伺いたい」


 ヴァレンは帳面を開いた。


 「現行のカリキュラムに、二つの新しい枠を入れたい。一つは『政治と法の基礎』。ミレナ殿の条文を、条文のまま読む過程ではなく、『法の言葉が現場で何を起こすか』を学生に読ませる過程です。もう一つは『経済の基礎』。ロラン殿の扱っている採掘量上限・配給権・魔素本位制の運用の現場を、学生に開く過程です。二つとも、講義だけでなく、現場への短期派遣を組み込む」


 ロランが帳面を開いた。


 「現場の側から、申し上げたいことがございます。——今年、地方の鑑定人の国家試験が第二回を終えました。合格者は四十一名。しかし合格者が地方に派遣された後、半年で『商家の帳簿の読み方が分からない』『地域ごとの配給の偏りが予想と違う』という照会が、私の机に累計で十七件届きました。技は身につけている。ただ、技の外側を、全く知らずに現場に出ている」


 ヴァレンとロランの視線が、一度、交差した。別々の場所から同じ結論に辿り着いた者同士の視線だった。


 「来年度から、始めてください」


 カイルの声は短かった。


 「——追って、正式な設計案を宰相府に提出いたします。冬までに」


 部屋を出る時、ヴァレンがもう一度カイルを振り返った。


 「閣下。——技が完成する日は来ないかもしれませんが、技を社会に埋め込む仕事なら、終わりがあります。学院を、その仕事の初めの場所にさせてください」





 その夜の書斎で、カイルはエテルネアの老人の言葉を一度だけ思い出した。


 「石を書く者を持っている。」


 ヴァレンの五十年。ラウルの頭。学院の三十七人と、その次の五十人と、その次の百人。——石は輸出できる。しかし石を書く者は、この国の中で育っている。育てた者を輸出するわけではない。育てる場所を輸出するわけでもない。


 追いつけないと老人が言ったのは、石の話ではなかった。——人の話だった。





 数週間のうちに、机の右側の束が三冊になった。


 コヴァルドの商会から、形成サービスの拡大の打診。封筒の宛名はコヴァルド語の手書きだった。マルカの港湾都市から、温度固定箱の追加発注。発注書の枚数が前回の三倍に膨らんでいた。エテルネアの延長書面は秋のうちに届き、エリアの名前が学術院の印の下に二度書かれていた。——使節団が持ち帰ったのは、石ではなく、石を書く場所の像だった。三冊の束は、その像が三つの方向から戻ってきた跡だった。


 束が三冊になった頃、ルッツが「数字がまとまりました」と短く言って、宰相府の会議室に三人の閣僚を呼んだ。





 晩秋の朝、宰相府の会議室に、三人の閣僚が集まっていた。


 ルッツ。ロラン。ケルヴェン。——三人の前に、カイルが座っていた。机の上に、ルッツの報告書が一冊だけ置かれていた。


 「閣下。経済規模の統計が出ました」


 ルッツの声は、いつも通り事務的だった。報告書を開いた。


 「アストラードは、大陸経済の中心になりました」





 数字を読んだ。


 人口二百五十万。大陸の中では小国だった。レガリオンは四千万。コヴァルドは千五百万。マルカは二千万。エテルネアは五百万。——経済の総量では、依然として中位のままだった。だが、四ヶ国の決済と技術取引が、今や全てこの国の制度の上で回り始めていた。


 中心になった、というのは正確ではなかった。中心を奪いに行ったのではなく、気づいたら各国の通貨の交換と、魔素技術の移転と、国際取引の決済が、この国の制度を経由するようになっていた。記録石の国際流通と、魔素製品の輸出と、魔素本位制に基づく通貨の安定が、大陸経済の結節点を、この国に引き寄せていた。——数字はルッツの報告書の中にあった。報告書の数字は乾いていた。だが、乾いた数字の向こうに、八年分の仕事が積まれていた。





 ロランが補足した。


 「魔素通貨が、国際基軸通貨として各国で使われ始めています。コヴァルドとマルカが自国通貨との交換レートを固定しました。エテルネアは学術取引の決済に魔素通貨を標準通貨として採用しています」


 ケルヴェンが付け加えた。


 「四ヶ国が、アストラードを経済の中心として認めています。——これは外交的な同意ではなく、経済的な事実としてです」


 ルッツが報告書の最後の頁を開いた。


 「マルセル殿が、国際金融情報源として各国から問い合わせを受けています。地脈調査官が、経済統計の国際的な参照元になりつつあります」


 ルッツは報告書のさらに後ろの頁を指で示した。


 「四本柱の運用の継続状況です。配給権は全世帯の九割に届き、法定評価基準下の鑑定人が全国で二百人を超え、所有=再形成権の判例集が第一巻を刊行、採掘量上限は宰相府と精製所連合の共同印で四年連続の確定です。形成術師組合の一般免許保持者は、この四年で、下市街と近郊の村を合わせて三百人を超えました。——制度の名前は、もう日常の音になっています」


 ルッツはさらに一枚、別の紙を机の端から引き寄せた。普段の経済報告書とは別の、細長い緑の台紙に貼られた一枚だった。


 「——こちらも、今日、併せてお届けします。国境守備隊からの月次報告です」


 カイルの手が、紙の縁に触れた。


 紙は八年、カイルの机の右端に、同じ緑の台紙で毎月届いていた。戦死者の人数が欄に書き込まれた紙だった。ヴェラリオスの手稿を初めて読んだ夜、カイルが冊子の四つの段のうち三つを机の左の束と並べ、緑の台紙だけを「冊子が触れない場所」に置いた、あの紙の、四年後の一枚だった。


 今日の欄は、空白だった。


 去年の晩秋、三月。先々月、二月。先月、一月。そして今月、ゼロ。——四つの月が続けて空白になった欄を、ルッツが紙の上で指の腹で軽く押さえた。


 「——完全撤退条約発効から二年余。国境の不完全独立下で発生していた散発的な衝突は、去年の夏以降、報告件数が零です。本日の報告で、四ヶ月連続の零が確定しました。軍令部の見立てでは、これをもって『不完全独立下での戦死者の欄』は、公式に閉じる運びです」


 カイルは紙の縁を、指で一度だけなぞった。


 「——閉じる」


 「はい」


 ルッツの声は、経済規模の数字を読み上げた時と同じ、事務的な声のままだった。しかし、その事務的な声の中に、八年、毎月この欄に数字を書き込み続けてきた実務家の手の重さが、一度だけ、通った。


 ルッツは緑の台紙の下から、もう一枚、別の紙を引き寄せた。大判の白い紙で、表に「志願兵制度 最終集計」と書かれていた。


 「——あわせて、最終集計をお届けします。制度が公式に閉じる以上、累計の数字は、今日、机の上に置かせてください」


 数字が、紙の上に並んでいた。


 独立以来の志願兵登録総数——七千二百八十六名。

 戦死確認——五百二十七名。

 消息不明のまま——九百余名。

 帰還——五千七百名。うち二千余名が、再編された軍令部に編入済み。

 残余——二百余名、現在も所在確認中。


 「軍令部は、撤退条約発効以降、北部国境守備隊を中心に組織再編を終え、独立した国軍としての体制を整えております。帰還した者のうち、戦闘経験を持つ二千余名が、編入の中核となりました」


 ルッツの声が、数字の行を一つずつ拾った。読み上げ終えて、紙を机の上に置いた。緑の台紙の空欄と、白い紙の数字の列が、机の右側に並んだ。


 カイルは、最初の数字を、もう一度読んだ。


 七千二百八十六。


 ——独立一年目の冬。宰相府の執務室。レガリオンの特使ルヴェットが、「千名規模の竜人族の兵力を、半年以内に」と要求した。濃紺の外套、首元の金の徽章、二年分の疲労が目元に薄く滲んでいた。「身体強化を施せば更に」と口を滑らせ、すぐに「鍛錬を積めば」と言い直した時、ルヴェットの顎が微かに動いた。——カイルの筆が止まった夜だった。オルデンが四つの理由で拒絶し、アルマンがルヴェットの袖に軽く触れ、ルヴェットが数字を半分に下げて、五百、と言った。半月の検討の末にオルデンが受け入れたのは、その五百だった。


 五百。


 紙の上の、七千二百八十六。


 十一年の間に、五百は十倍を超えた。そのうち五百二十七が帰らず、九百余が消息を絶ったまま戻らなかった。「志願を妨げない」という、あの日の一言が、この十倍の数字を、物理的に引き寄せた。


 五百二十七のうちの一人が、独立二年目の春に宰相府の応接室を訪ねてきた母親の息子だった。タルシスの東部、地名のない地のどこかで死んだ若者。「自分が出れば給金が届く」と言って志願し、給金は息子が死んだ後も三ヶ月分の未払いが届いた、と母親が静かに言った日だった。母親はカイルの応接室を、毎春、息子の死んだ場所の名前を確かめに訪ねてきた。三年前から、訪ねなくなった。地名のない地は、最後まで地名のないままだった。——紙の上の五百二十七は、その一人を含む数字だった。残りの五百二十六にも、訪ねてきた者と、訪ねてこなかった者がいた。


 経済の数字も、同じ十一年で、最初の想定を超えて伸びた。ルッツの左の束の報告書には、大陸経済の結節点という事実が、数字の集合として並んでいる。その伸びも、当初の想定以上だった。


 二つの「想定を超えた」が、同じ机の上にあった。——経済の成長は、期待より大きかったかもしれない。だが犠牲は、予想よりはるかに多かった。片方は良い方に、片方は悪い方に、同じ年月が、同じ国の中で、別々の速度で広がっていた。


 カイルはしばらく、二つの束を、順番に見た。数字が、ただ並んでいた。


 二つの束が、机の上に並んでいた。左はルッツの経済規模の報告書。右は国境守備隊の月次報告と、志願兵制度の最終集計。——六年前のあの朝から、机の上で、民需拡大の数字と軍事の数字が、二つの別々の束として、同じ机の上に並び続けていた。今日、初めて、二つの束が、同じ方向を指していた。


 「これで——死者が、止まりました」


 カイルは言葉にした。声は低かった。三人の閣僚の方ではなく、机の上の二つの束の方に向けて、言った。緑の台紙の空欄は、数字ではなく、数字の不在を示す形で、紙の上に在った。数字が書かれなくなった欄だけが、八年の仕事の物理的な到達点だった。





 三人の報告が終わった。


 カイルは報告書を閉じた。閉じてから、しばらく机の上に置いたまま動かなかった。


 ——オルデンが机の左の束の角を、親指で一度だけ撫でて、それから次の束に移る癖があった。報告書の縁に置いたカイルの指が、その癖の高さで、一度だけ止まった。


 「オルデン宰相に、見せたかったな」


 声は小さかった。三人だけの会議室の中で、その一文だけが、事務的な空気と違う温度を持っていた。


 ルッツが、一瞬だけ目を閉じた。ロランが、帳面の端に目を落とした。ケルヴェンが、眼鏡の奥で何かを飲み込んだ。


 三人とも、何も言わなかった。——言わないことが、今日の受け取り方だった。





 夕暮れ。


 カイルは宰相府を出て、王宮の高台に上った。


 高台は、王宮の敷地の北端にある。石の手すりが低く巡らされていて、手すりの向こうにヴェルデンの街が広がっている。——王子だった頃、この高台から街を見下ろしたことがあった。あの頃の街は暗かった。魔素灯が点るのは王宮の周りだけで、下市街は蝋燭と薪の光だった。


 今日の街は違った。


 下市街の通りに、形成灯が次々と点っていくのが見えた。日暮れとともに、通りの端から端まで、白い光が順に灯っていった。——灯しているのは形成術師だった。名前を知らない若者たちだった。学院で学び、工房で働き、毎日の夕暮れに通りの灯を点ける仕事をしている若者たちだった。


 夏の懇談会で、エテルネアの老人がカイルに向けた一言が、若者たちの灯す光の中に一度、薄く戻ってきた。


 ——追いつけない。


 石の話ではない、と老人は言った。人の話だ、と。今、夕暮れの通りで光を灯しているのは、その「人」だった。八年前にはまだ名前の付いていなかった三十七人と、その次の五十人と、その次の百人の手の延長線上にいる若者たちだった。——老人の声は、敗北の声ではなかった。認定の声だった。その声が、今、形成灯一つ一つの白い光の中で、もう一度、静かに認定されていた。


 広場で子供たちが遊んでいた。遠くの街道を、農村から帰る農夫の馬車が通っていた。工房街の煙突から、煙が幾筋も立ち上っていた。下市街の南の一角に、四年前には一つだけだった共同工房の窓の灯が、今日は複数、別々の区画に点っていた。組合支部が支部の数だけ分岐していた。


 全てが動いていた。





 カイルは石の手すりに手を置いた。石は冷たかった。王子だった頃、この手すりに手を置いた記憶がある。あの頃の石と同じ冷たさだった。石だけは変わっていなかった。


 六年前、オルデンの椅子に初めて座った朝、宰相の椅子は一人で座る椅子だと思っていた。閣僚は仕事を分担する同僚だった。ラウルは技術者で、ミレナは代書屋で、ロランは経済官僚で、ヴァレンは学者だった。それぞれの専門を、それぞれが持っていた。カイルだけが、全員の成果を受け取って、形にする場所にいた。受け取る場所は、一人で座る椅子だった。


 ——そうではなかった、と今日の手のひらが知っていた。


 ラウルの鉛筆の音が、離れの方角から、八年分の夜に響いてきた。ミレナの赤い印が、法典の条文の横に、季節を二十回数えるあいだ、毎月小さく増えていった。——ロランの帳面のページを繰る音。ヴァレンの眼鏡の縁が一度上に押し上げられる動き。エリアが芋の葉の色を書き留める時の、鉛筆の止まり方。それぞれの時計が、それぞれの体の中で動いているから、カイルの机の上に、紙が届く。届いた紙を、カイルは形に変える。一人で座る椅子ではなかった。他者の時計の合流点に置かれた椅子だった。


 師が「人を巻き込め」と言った意味が、今、体の中で静かに並んでいた。——閣下は、一人で独立までをほぼ背負って進めた。私は、一人では、ここまで来られなかった。巻き込んだ人々の時計の合流点にいただけだ。それが、宰相の椅子の、ほんとうの形だった。





 「これで、いい」


 声に出した。


 誰に向けて言ったのか、自分でも分からなかった。オルデンに向けて言ったのかもしれなかった。自分に向けて言ったのかもしれなかった。あるいは、下市街の通りの形成灯を灯している、名前を知らない若者たちに向けて言ったのかもしれなかった。


 声に出した後で、四つのものが、別々の方角から、カイルの目の中に並んだ。


 ——緑の台紙の空欄。報告書を閉じた後、机の上にあの紙の白さがまだ残っていた。


 ——眼下のヴェルデン。形成灯の光が、通りを端から端まで満たし始めていた。


 ——学院の三階。あの教室の壁の設計図の前で、第二期生の鉱人族の娘が指で炉の温度を確かめていた、夏の午後の姿。


 ——大広間のテーブル。完全撤退条約に、レガリオンのヴァイスが署名した冬の朝の机の角。


 四つは、別々の場所から、同じ一言の中に、声を出した後で、揃った。一人で達したものは、一つもなかった。


 空の色が変わっていた。夕暮れの赤が退いて、夜の紫が広がり始めていた。最初の星が、東の空に一つだけ見えた。——この世界では、星の光が大地に降り注いで魔素になると信じられている。


 カイルはもうしばらく、高台に立っていた。形成灯の光が街を満たしていくのを見ていた。


 風が吹いた。晩秋の風だった。石の手すりの上を通り過ぎる風は冷たかったが、街の方から形成灯の暖かい光が、風の中に混じっていた。


 カイルは手すりから手を離さなかった。


 二つ目の星が、東の空に灯った。最初の星との間に、距離があった。その距離の中に、八年が、薄く伸びていた。——今、急いで降りる必要はなかった。明日の机の上の束は、明日、また形を変える。今日のこの高台の風は、今日だけのものだった。


 カイルはもうしばらく、高台に立っていた。


 背後で、街の光が増え続けていた。





 (第三章 完)

【豆知識:四ヶ国それぞれの政治構造】


四ヶ国それぞれの政治体制が「規格と制度の発信」に向いていなかったのは、体制そのものに刻まれた制約でもあります。

**レガリオン**は元老院と民会が立法、執政官二名(任期五年・軍事と内政で分担)が行政を統括する**元老院共和制**。「王を持たない国」を誇る一方、執政官の交代の度に対外戦略の重心が振れる構造を持ちます。

**コヴァルド**は地下都市の「深度」が政治的発言力を規定する**深鉱議会制**——最深部三都市の支配層が実権を握り、浅層部・地上は発言力を持たない苛烈な階級制で、外向きの規格共有とは相性が悪い。

**エテルネア**は革命後の**学術院寡頭制**——筆頭学匠と十二名の合議体が国を回しますが、革命の勝者である商人層の既得権を中核に抱えています。

**マルカ諸国**は十〜十五の都市国家による緩やかな同盟で統一政府を持たず、**ザフィール**は感応者の長老合議で内向きに沈む——大陸にこれだけ違う五通りの政治体制が並んでいるのが、第三章の国際情勢の土台です。



第三章「離陸」完結です。

敗戦のどん底から始まったカイルたちの戦いは、ここで一つの静かな頂点を迎えました。ここまで長くお付き合いいただいた皆様には、心から感謝します。

「この先の展開も気になる」と思っていただけた方は、どうかページ下の【★】や応援コメントをいただけると嬉しいです。次の章は時を置いて、いずれ。


---

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。