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第80話 育つ者たち

秋の朝、アルブレヒト邸の食堂に、六人が揃っていた。


 ミレナが粥を運んでいた。リーネが食器を並べていた。レオが庭の型稽古から戻ってきた足で、髪の後ろに湯気の残りを付けたまま席に着いた。ラウルが離れから出てきて、眼帯の下の左目だけで窓の方を一度見てから、一番奥の席に座った。エリアはもう先に着いていた。観察ノートではなく、書簡が手元にあった。エテルネア学術院からの手紙だった。


 「今月のご返事です」


 エリアがカイルに短く言った。


 「成長畑具の効果データ。先週送った分のご評価と、次の三ヶ月で取るデータの項目の希望が書かれています。——学術院の先生の筆跡が、半年前より丁寧になりました。私の記録を、向こうが真剣に読み始めた、ということだと思います」


 「向こうに戻る話は」


 「共同研究の枠組みは、来年の夏までです。延長するかどうかは、再来月の報告書の内容で決まります。——今のところ、延長したいと思っています」


 カイルは頷いた。頷きの中に、言葉にしなかった何かが、エリアには伝わった様子だった。視線が一度柔らかくなって、すぐに戻った。


 レオが粥に匙を入れた。


 「ラウル、夜にまた倒れたな」


 「倒れてない」


 「机に突っ伏してる姿勢のまま朝まで動かないのは、倒れたうちに入る」


 「寝ていただけだ」


 「寝ていただけで首の左側が硬くなるなら、医者が見る」


 ラウルが鼻で短く息を出した。ラウルの返事だった。レオは既に次の話に移っていた。リーネが絵本の新作の色見本をエリアに見せていた。ミレナは何も言わずに、全員の椀に同じ分量の粥を注いでいた。


 カイルは椀を両手で包んだ。今朝、学院に向かう前の一杯だった。


 食堂を出て中庭を通る時、カイルは西離れの方に目をやった。壁の一部が、他よりわずかに新しかった。リーネが一般免許を取って二年目、週の休みに少しずつ直している場所だった。——先日ミレナから、下市街の代書屋の常連の中に、リーネの後を追って親和性テストを受けた者が数人いると聞いていた。家の外の下市街でも、同じ色の新しさが壁に出始めているのだろうと、カイルの中で一度繋がった。





 秋の朝、カイルは学院の門をくぐった。


 二年半前の開学の日以来、学院の中に入るのは初めてだった。あの日は建物の外に残った。今日は中に入った。——ヴァレンが「そろそろ、中を見てください」と言ったからだった。


 正面の壁は白いままだった。だが白の上に、二年半分の人の手が通った跡があった。扉の取手が磨かれていた。階段の手すりの角が丸くなっていた。——建物が、使われていた。





 一階の教室に入ると、若い声が途切れた。


 十五人ほどの学生が机に向かっていた。第一期生の残りと、第二期生の一部が混じっていた。カイルが入ったことに気づいて体が固まった者と、気づかずに紙の上を見続けていた者と、顔を上げてすぐに紙に戻った者がいた。——三つの反応の割合は、宰相府の廊下の掃除夫の反応とは違った。学院の中の反応だった。


 教壇の前に、ヴァレンの研究機関から来た兼任教員の竜人が立っていた。壁に設計図が一枚貼られていた。複雑な図だった。カイルには読めなかった。——だが、学生たちは読めているらしかった。指で図の線を追いながら、帳面に書き写している者がいた。


 カイルは教室の後ろに立った。声はかけなかった。五分ほど見てから、静かに出た。





 二階の実習室で、三人の学生が規格化形成炉の前にいた。


 炉は小型だった。教育用の炉で、出力は工房のものの半分以下だと、ヴァレンが事前に説明していた。三人のうち一人が炉の操作を担当し、もう一人が設計図を読み上げ、三人目が出来上がった石の表面を指で確かめていた。


 石の表面を確かめていたのは鉱人族の娘だった。第一期生の中で、形の直感が一番鋭い、とヴァレンが言っていた。指が太かった。指先で石の表面の微細な凹凸を確かめる動きは、職人の動きだった。——学院に来る前は、地元の鍛冶場で板金を叩いていたらしい。


 炉の操作を担当していたのは人間族の少年だった。名簿を見た時に「記録石で読み書きを覚えたばかり」と書かれていた。今は炉の温度を指先の感覚で調整していた。——二年半で、記録石で字を覚えた少年が、形成炉の温度を体で覚えた。





 ヴァレンが二階の廊下で待っていた。


 「お見せしたかったのは、三階です」


 三階には、研究機関の若手研究者と学院の上級生が共同で作業する部屋があった。部屋の中に、大きな設計図が壁一面に貼られていた。


 「複合化の試作です」


 ヴァレンの声に、誇りが混じっていた。


 「建築形成と空気形成と温度固定を、一つの形成図に統合する。——住居形成器。まだ試作段階ですが、形は見えています」


 カイルは壁の設計図を見た。読めなかった。だが図の中に、複数の線が交差している場所が何箇所かあった。交差の仕方が、他の設計図と違った。——一つの線だけでは成立しない構造が、他の線と組み合わさって初めて機能する。それが複合化の意味だろうと、カイルの頭が推測した。


 ヴァレンは壁の設計図の前で、少しだけ黙った。黙ってから、眼鏡のつるを指で一度直した。


 「——二年半前、開学の朝に、私は学生たちに一言だけ言いました。覚えていらっしゃいますか。『技と並んで、世を読む力も』という」


 「覚えている」


 「私はその一言を、あの朝、自分で付け足した」


 ヴァレンの視線は、壁の図の上にあった。しかし目は図を見ていなかった。別のところを見ていた。


 「——あれは、設計段階の学院案に入っていない文でした。あの朝、学生の顔を見てから、私自身が自分の声に任せて加えたものです。入れた理由を、当時の私は正確には説明できませんでした。五十年、技だけを追ってきた者の勘のようなものでした」


 ヴァレンは壁の図の一点を指先で軽く叩いた。建築形成と空気形成と温度固定の線が交差している場所だった。


 「今、この三階の図を見て、あの一言の意味が、私の中ではっきりしてきました。この図は、昇降筒にも、気候固定区画にも、複合化の住居形成器にも使える。——しかし、この図を使う者が、自分の手の中の技が、外で何に触れているかを見る目を持っていなかったら、この図は、家の外の世界を考えないまま、家だけを作ります」


 「……」


 「気候固定区画の花は、十年使えば、春以外の季節の植物の根が弱ります。ご存じでしたか。花屋から、先月、相談がありました。——使う者が、自分の指の下の技が、庭の外の季節にまで何を返しているかを、見る必要がある。技が複合化するほど、外に届く影響の幅が広がります。技だけを育てた学院は、その幅に手が届きません」


 ヴァレンは一度だけ、カイルの顔を見た。


 「閣下。——学院のカリキュラムを、少し、考え直す時期が来ているかもしれません。まだ申し上げる段階ではありませんが、私の中で、形を詰めております。時期が来ましたら、ご相談させてください」


 カイルは頷いた。一言で済む頷きではなかったが、一言で応じた。


 「待つ」





 学院を出た後、ケルヴェンが「上層街の視察も入っています」と言った。


 上層街の北端に、新しい高層の屋敷が建っていた。五階建て。形成建築だった。白い壁面に、生物的な曲線の窓枠が並んでいた。戦前の王宮の建築に似た形だったが、規模は小さく、曲線はより繊細だった。


 屋敷の中に入ると、一階から最上階まで一瞬で移動する装置があった。


 「昇降筒です。建物内の縦方向の距離短縮。——これがあれば、何十階建てでも作れます」


 案内の術師が説明した。カイルは昇降筒の中に入って、五階まで上がった。体の重さが一瞬だけ消えて、次の瞬間に五階の廊下に立っていた。——空間系の技術だった。


 五階の窓から、ヴェルデンの街が見渡せた。工房街の煙突と、下市街の屋根と、遠くの丘の上の精製所。——この高さから見ると、街が広がっている。二年半前より、屋根の数が増えていた。





 屋敷の庭に出た時、カイルの足が止まった。


 庭の一区画だけが、春だった。


 秋の空気の中に、その一区画だけ、花が咲いていた。色とりどりの花が、春の温度の中で、枯れずに咲き続けていた。区画の外は秋の枯れた草。区画の中は春の色。境界は、目に見えない壁で仕切られていた。


 「気候固定区画です」


 案内役の貴族——屋敷の持ち主——が得意げに言った。


 「この春は続きます。娘の婚礼の日まで、ずっと春のままです」


 カイルは花に手を伸ばした。指先が花弁に触れた。温かかった。——秋の空気の中で、花弁だけが春の温度を持っていた。


 「婚礼は、いつですか」


 「来年の春です」


 カイルの指が花弁から離れた。——来年の春まで、この区画は春のままでいられるのか。固定相の寿命は設計の質で決まる、とルッツが以前言っていた。この区画の設計が良ければ、一年は持つだろう。持つはずだった。


 持つはずだった、という言葉が、頭の中に一瞬だけ浮かんで、消えた。科学的に疑う根拠はなかった。——ただ、花弁の温度が、秋の空気との境界で、ほんの少しだけ揺らいだように感じた。感じただけかもしれなかった。





 宰相府の塔に戻ると、ケルヴェンが一枚の覚書を机の端に置いていた。


 「閣下。先週届いた留学の問い合わせの整理です。——今年分が揃いました」


 カイルは覚書を手に取った。表に、国別の件数が並んでいた。コヴァルドの鉱人族学校からの推薦。エテルネア学術院からの申請。マルカの商会付きの見習い。ザフィールからは二件。——件数が、去年の二倍を超えていた。


 「多い」


 「多い、というだけではありません。——文面が、去年と今年で違います」


 ケルヴェンの指が、覚書の中ほどを示した。そこには、二つの段落が並べて貼り付けられていた。一方は去年の問い合わせの抜粋。「貴国の魔素研究の進展を学ばせていただきたく」。もう一方は今年の抜粋。「貴国との差を、このままにすることはできません。弊国の若者を受け入れていただきたく」。


 「——『学びたい』が、去年の多くの文面でした。今年は、『追いつきたい』、『遅れている』、『差を縮めたい』、という語の割合が増えています。同じ『留学』の名目ですが、使節の背中が変わりました」


 カイルは二つの段落を二度読んだ。


 「ヴァレン殿には」


 「お渡し済みです。——ヴァレン殿のお返事は『歓迎する。ただし、本学院の学び方まで併せて受け取ってもらう』。いつものご返答でした」


 カイルは覚書を閉じた。閉じながら、頭の片隅で、三階の壁の設計図と、「追いつきたい」という言葉が、一瞬だけ並んだ。——他国は、この技の外で何に触れているかを、まだ、こちらと同じ目では見ていない。受け入れる時に、「学び方」を一緒に渡せるかどうかが、これから先の仕事になる。


 覚書を机の右端に置いた。ヴァレンの言葉を待つ束の、一番上に。





 学院の名簿をもう一度開いた。


 第一期生の名前を、上から順に目で追った。粉屋の娘の名前。オストーフの若い炉番の名前。人間族の少年の名前。鉱人族の娘の名前。——そして、一つの名前の上で、目が一瞬だけ止まった。


 セノン。


 竜人族、五十代前半。民間商家の見習い。——第一期生の中で、成績は中位だった。突出した才能があるわけではなかった。だが名簿の備考欄に、ヴァレンの筆で一行だけ書かれていた。「形成図の読解が正確。誤りに気づくのが速い」。


 カイルはその一行を読んで、名簿を閉じた。セノンの顔は、二年半前の面談の時の記憶と変わらなかった。——静かな目をした若者。それだけだった。





 その夜、書斎で、カイルは紙に何も書かなかった。


 今日見たものを、体の中で整理していた。学院の教室で設計図を読む学生たち。実習室で炉の温度を体で覚えた人間族の少年。複合化の試作。昇降筒。気候固定区画の花。——全てが、動いていた。全てが、育っていた。


 人が育つのに時間がかかる、という言葉は本当だった。——二年半前に三十七人を数えた朝、まだ名前だけの存在だった彼らが、今日は炉の前で石の表面を指で確かめていた。


 机の端には、ロランから届いた冬以降の運用報告の束が積まれていた。カイルはその一枚を引き寄せて目を通した。魔素本位制は民間ギルド認証で定着し始め、下市街の試験流通の混乱が収束した。配給権は下市街の七十二件のうち六十件まで届いた。法定評価基準の鑑定人国家試験が年初に第一回を終え、合格者三十二名。所有=再形成権の最初の判例が夏に出た。採掘量上限は宰相府と精製所連合の共同管理で初年度の算定が済んだ。——全ての柱が、まだ弱いが、立っていた。





 扉が軽く叩かれた。エリアだった。


 「カイルさん。——少し、お時間いただけますか」


 カイルは頷いた。エリアは手に、厚い冊子を一冊持っていた。観察ノートより分厚かった。三年分の記録を一冊にまとめた集約冊子だった。


 「学術院の再来月の報告書のために、三年分のデータを整理しました。整理している途中で、一つ、自分でも掴みきれていない形が、見えてきたのです」


 エリアは机の上に冊子を開いた。頁の中に、十二の農家の成長速度が、三年分の季節ごとに並んでいた。縦に十二列、横に三年の月が並ぶ格子だった。その上に、エリアが赤い線を薄く引いていた。


 「地脈からの距離を、横軸に取り直したのです。地脈に近い畑が左、遠い畑が右。——すると、鈍化の幅に、傾きが見えました」


 カイルは格子を覗き込んだ。赤い線は、左から右へ緩やかに下がる形ではなく、——右の畑の方が、鈍化が遅かった。左の近い畑のほうが、鈍化が早かった。


 「地脈に近い畑のほうが、鈍化が早い」


 「そうです。遠い畑の方が、三年分の成長速度が安定しています」


 「……普通に考えれば、逆になりそうな気がするが」


 「私もそう思いました」


 エリアは冊子の別の頁を開いた。そこに、三つの仮説が並んで書かれていた。


 「一つ目。近い畑の方が成長畑具を多く使っているから、具の固定相が消費されて効果が薄れている。——でも、ヴァレンさんの試薬では具の魔素残量はまだ十分でした」


 「二つ目」


 「近い畑の方が、地脈の流動相を直接吸い上げすぎている。地脈の側が疲れている、という仮説です。——でも、マルセルさんの調査では、地脈は正常の範囲内です」


 「三つ目」


 「三つ目は、——まだ、言葉に落ちません」


 エリアの指が、冊子の余白で止まった。そこには、鉛筆で、何度も消した跡の残る線が、うっすらと残っていた。書こうとして、書ききれずに消した跡だった。


 「感覚としては、地脈に近い場所で、何かが『痩せて』います。何かが、消費されて、戻らずに、減っている。でも、その『何か』が、魔素の残量ではありません。魔素量は、マルセルさんの調査で正常だと出ています。だから、何が痩せているのか、私の言葉では掴めません。学術院の師に手紙で相談したのですが、師の方も『三百年前の記録にも似た形が出ている』としか返事をくれませんでした」


 カイルは冊子の上の赤い線を、もう一度見た。——線は、緩やかだった。誤差の範囲内と言えば言える程度の緩やかさだった。だが、三年続いている。


 「結論は、出さないのか」


 「出しません。三年のデータでは足りません。来年の春、同じ十二の畑で、もう一度計測します。四年目の線が、今年と同じ傾きを続けるなら、——それは誤差ではない、と言えます。ただ、その時に『何が』と答えるには、魔素の側の視点が要ります。私の植物学の目だけでは、届きません」


 カイルはエリアの顔を見た。


 「ヴァレンに見せろ。——研究機関に、この冊子の写しを一部預けろ」


 「分かりました。ラウルさんにも、見ていただいた方がいいと思います」


 「そちらはヴァレンを通して頼め。離れに直接持ち込んでも、ラウルは目を通さない」


 エリアは頷いた。冊子を閉じた。閉じる時の手の動きが、初めてカイルに観察ノートを見せた夏の夜と同じだった。ゆっくり、表紙の端を指で押さえて、音を立てずに閉じる。


 部屋を出る時、エリアは扉の前で一度振り返った。


 「カイルさん。——この線が、何を意味しているか、私にはまだ分かりません。ただ、何かが、少しずつ、減っています。私が言えるのはそこまでです」


 扉が閉まった。


 カイルは冊子の表紙を一度だけ撫でた。赤い線の頁がまだ頭の中に残っていた。——誤差の範囲内。しかし、三年続く傾き。エリアの言う「何かが痩せている」という言葉が、指の奥で、少しだけ重かった。


 今日見た昇降筒、気候固定区画、複合化の試作。全てが、魔素を前提として組まれていた。魔素が、ある、という前提で。——もし、その前提の側で、何かが静かに減っていたとしたら。


 考えを、途中で止めた。エリアの言う通り、まだ結論を出す時期ではなかった。冊子を机の端に置いた。明日、ヴァレンの手に渡すための場所に。





 窓の外で、千年の木の葉が秋の風に揺れていた。庭に気候固定区画はなかった。千年の木は、自分の季節のまま、葉を落としていた。

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