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第64話 民需の氾濫

夏の朝、宰相府の執務室の机の上に、二枚の束が並んでいた。


 左の束は、ルッツの字で「夏期進捗(一の巻)」と表題が付されていた。商家の登録数、形成術師の組合加盟数、工房街の新規看板、記録石の流通枚数。どの行の数字も、前季比で伸びていた。


 右の束は、角の厚い封筒だった。表に「戦死者報告」とだけあった。北の国境守備隊の印。——春の分は、既に開けていた。三月の分、四月の分、五月の分。三通は、昨夜遅くにトーヴァが届けた。「机の右端に、いつも通り積んでおきました」と一言だけ、戻り際に残していった。閣僚のいない仕事だった。宰相府の書記から宰相の机まで、紙は、事務官の手で運ばれていた。


 数字の束と、名前の束。


 机の上で、二つの束は指二本分の隙間を挟んで並んでいた。隙間は、埋める気がなかった。埋めてはいけない隙間だった。夏の民需の水の量と、春の国境の死者の数は、同じ机の上で、同じ言葉には翻訳できない種類の数字だった。


 カイルは封筒の一つに指を伸ばし、中身の紙を机の中央に置いた。名前を読んだ。十一の名前。経緯の最後の行は、どれも「前線哨戒中」「境界線付近の応戦」だった。


 紙を封筒に戻した。封筒を右の束に戻した。——後でまた読む。読んだからといって、今日の視察を止めるわけにはいかなかった。国境は国境で動き続け、下市街は下市街で動き続け、両方を同時に背負うことが、今朝からの自分の仕事だった。


 カイルは左の束を脇に抱え、扉を出た。





 夏の朝の市場は、二年前と別の音を出していた。


 ヴェルデンの下市街の中央通り。以前は乾物と穀物の荷馬車が並ぶだけだった通りの両側に、今は新しい看板が出ていた。「造形サービス」の文字が、石造りの壁に木の札で掛けられている家が五軒、六軒と数えるごとに増えていた。看板の下の入口には、記録石を腰の袋に入れた若い形成術師の姿が見えた。形成術師の手元には帳面があった。予約を取っていた。予約が一日で埋まる、ということが、二年前にはなかった。


 ルッツの帳面の数字では、国内の形成術師の組合加盟はこの春だけで倍に増えたことになっていた。数字は見ていたが、数字の下で通りが変わった光景は、今朝、自分の足で歩いて初めて知った。





 カイルの隣でルッツが歩きながら帳面をめくっていた。ロランは少し後ろを歩いていた。


 「閣下。記録石の国内流通枚数です。昨夏の七百二十枚が、今夏の時点で二千三百枚を超えました」


 「使い切った分の補充は」


 「出始めています。記録石は使い続けると摩耗します。最初に配布された石のうち、約一割がこの半年で交換を要しました。——使い切って、補充を求めるということは、使われている、ということです」


 「摩耗の速度は」


 「石によって差があります。ヴァレン殿の初期の仕事は頑丈ですが、後から量産した石の一部は、二、三年で機能が落ちます。——消耗品性がある、ということです。消耗品であるということは、流通が止まらないということでもあります」


 ルッツの声は事務的だった。消耗品という言葉に含まれる意味を、ルッツ自身はまだ数字の問題として扱っていた。カイルはその言葉を一度だけ頭の中で繰り返し、通りの先に目を戻した。


 「もう一つ。研究機関の方からの報告です」


 ルッツは帳面の次の頁をめくった。


 「治癒具——以前の『塞ぐ石』です——の試作が、先月から量産工程に入っています。工房街の三ヶ所の炉で同時に焼いている。ヴァレン殿が、製品の作り方を記録石に刻まれて、弟子の手でも焼けるようになりました。——それから、形成灯。こちらも試作が出ています。まだ灯りの持続が半日程度ですが、研究機関の一階と、下市街の二軒の食堂に試験的に納入されました」


 カイルは歩きながら頷いた。二年前に工員の掌の上で初めて動いた乳白色の石が、今は炉三ヶ所で焼かれている。秋に若い人間族が祖母の記憶として語った灯りが、食堂の天井で半日だけ明るくしている。——種は、二つとも、育っていた。





 通りの途中で、カイルは一つの露店の前で足を止めた。


 魚屋だった。干し魚と塩漬け魚を並べる台の横に、もう一つの台があった。台の上に、鮮魚が並んでいた。夏の盛りの、下市街で、鮮魚が並んでいた。匂いは干し魚の匂いとは違った。海の匂いがした。ペスカルから馬車で五日かかる魚が、腐らずにここに並んでいる。


 台の下に、木の箱が一つ見えた。箱の外側に、乳白色の薄い板が嵌め込まれていた。板の表面には、形成跡の細い線が微かに走っていた。


 女将が台の向こうから声をかけてきた。


 「お客、鮮魚は初めて? 保存具で運んできてね、この箱の中に入れとけば、三日は持つよ。——でもね、今年から箱じゃなくて、もっといいのが来たの」


 女将は台の横に置いてあった、やや大きめの、四角い石の箱を指した。箱の内側に乳白色の薄い板が二枚、蓋と底に嵌められていた。


 「温度固定箱。去年の冬から出回り始めてね。この中に入れとくと、夏でも氷の部屋と同じ。魚も乳も果実も、一週間は腐らない。——うちの亭主が工房街で手に入れてきたの。形成術師に予約して、三月待ちだったよ」


 女将は誇らしげだった。その顔は、二年前の工房街の「塞ぐ石」を見た女たちの顔と同じ種類の顔だった。驚きではなく、安心の顔だった。


 「もう一つ、見る?」


 女将は台の横から、小さな石を一つ取り出した。掌に収まる程度の、平たく丸い石。表面に浅い窪みが一つ掘られていた。


 「煮炊き石。この石の上に鍋を置くと、指で温度を決められるの。弱火も強火もこれ一つ。薪を割る必要がない。炭を買う金もいらない。——うちはこの石が来てから、朝の支度が半分の時刻で済むようになったよ」


 カイルは煮炊き石に指を一本だけ伸ばした。石の表面には微かな温度があった。使った後の余熱がまだ残っていた。


 掌に収まる一つの石が、薪と炭と、焚き付けの時間と、火を見張る時間の全てを置き換えていた。——下市街の台所が、一つの石で変わっている。一昨年の秋に研究機関の若い男が語った「神殿の奥の灯り」は、あの日から一年半の間に、ここまで降りてきた。台所の中で。魚屋の台の下で。女将の手の中で。


 カイルは指を離した時、女将の手の皮膚を見た。手は荒れていた。日焼けと塩漬けの仕事で、皮膚の表面はざらついていた。その手が煮炊き石を握る時だけ、指先が一瞬だけ柔らかい動きをしていた。石に対する信頼が、指の動きに出ていた。





 女将の向こうで、ルッツが一歩前に出た。


 「閣下」


 「ああ」


 「煮炊き石は、形成炉で一晩かけて焼き上げた一品です。数年は確実に持ちます。王宮の結界は数十年持ちましたから、我らの民生品も、もう少し時間をかければそこまで届くでしょう」


 ルッツの声には、誇りが滲んでいた。技術官僚の誇りだった。その誇りの中に、カイルは一つの数字を聞き取った。——数年。数年は確実に持つ。


 その数字を、カイルは心の中で一度だけ記録した。記録しただけで、疑問は持たなかった。持つ理由がなかった。ルッツは数字の男だった。数字の男が「数年」と言ったのだから、数年なのだろう。





 通りの先で、ロランが一枚の紙を広げていた。


 「閣下。商家の登録数です。ヴェルデン市内で、先月だけで十二家が新規に看板を出しました。周辺の町を合わせると三十以上です。業種は造形サービスの下請け、保存具を使った遠距離の食品流通、記録石の配布仲介。——旧貴族の家業が壊れた跡に、新しい商家が生えてきています」


 「届かない家々の方はどうだ」


 「残っています。最下層と、地脈から遠い農村には、まだ造形サービスが届いていません。工房街から馬で二日以上の村には、記録石そのものが行き渡っていない」


 カイルは通りの左右を見た。目の前の通りには、造形サービスの看板が並んでいた。この看板が一つも届いていない通りが、同じ下市街のどこかに、今朝もある。看板のある通りと、看板のない通りが、同じ一つの街の中で隣り合っていた。





 通りをさらに一区画進んだ先で、三人の男が声を張り上げていた。


 工房街の若い形成術師と、下市街の両替商と、その間に立つ痩せた男。形成術師の掌の上に、薄い乳白色の石が一枚あった。石の表面に、小さな形成跡が走っていた。


 「この一枚で、冬麦の袋二俵分だと組合で決めてある。書類にもそう書いた」


 「俺の店の量りで測ると、先月の石の二倍重い。組合のは組合の話、うちの量りで決める」


 「量りの違いはお前の店の問題だろう。別の両替商の量りでは一致したぞ」


 三人の声の後ろで、ロランが足を止めていた。ロランの背後には、いつからそこにいたのか、メルケンの姿もあった。今朝はメルケンは市場の普通の服装だった。


 「あれは——」


 カイルが呟くと、ロランが短く答えた。


 「魔素通貨です。春から下市街で試験流通を始めました。政府が額面を保証する通貨——という話で出しましたが、御覧の通りです」


 石の表面の形成跡は、封じられた微量の魔素の量を示す仕掛けになっていた。だが魔素そのものは目に見えない。商人たちは両替商の量りで石の重さを測り、重さから額面を推定していた。量りの精度が店によって違うだけでなく、石に封じた魔素の残量を見積もる鑑定人の判定も店ごとに幅があった。同じ石が店によって別の額面で通用した。


 「政府は額面を保証している。しかし——」


 メルケンが低く言葉を継いだ。


 「保証している、という紙と、両替商の量りの間に、商人が立っていません。商人は、自分の量りで測れないものを信じません。閣下、春からここで、この光景が毎日続いております」


 三人の男の議論は、なお続いていた。結局、形成術師は痩せた男に石を渡すことを保留し、従来の金貨で再計算することになった。金貨を出した時、痩せた男の手が少し緩んだ。金貨の方が、この男にとっては「見える」通貨だった。


 ロランが紙に、今朝の一件も書き留めた。書き留めた時、ロランの肩が、朝一番よりほんの少しだけ下がっていた。


 「——閣下。通貨の案は、今のままでは動きません」


 「分かっている」


 「半年試して、骨組みの弱さが見えました。——『額面を政府が保証する』という一行を書いた時、私は『保証』の言葉が商人の手の上で勝手に歩くものと思っていました。歩きません。商人は、自分の量りで測れないものを信じない。保証の紙と、両替商の量りの間に、商人が立っていないのです」


 ロランは筆を止めて、三人の男のいる方を、もう一度だけ見た。


 「——前に出る主体を、組み直す必要があるのかもしれません。時期として、まだ絵は固まっていません。冬までに案を詰めて、閣下にもう一度お見せします」


 カイルは答えた。動かないことは、朝の机の上の左の束の数字がどれだけ増えても、別個の問題として残り続ける事実だった。数字が伸びている通りと、数字が揉めている通りは、同じ下市街の中で、隣り合っていた。


 「——頼む」


 ロランは頷いた。頷きの中に、冬までの自分の仕事の輪郭が、今朝の通りで一度、固まった気配があった。





 午後、カイルはアルブレヒト邸に戻った。


 食堂で、ミレナが代書屋の仕事机の上の紙の束を整理していた。束は分厚かった。カイルは束の一番上の紙に、一目だけ視線を落とした。手紙の書式ではなかった。契約書の書式だった。


 「契約書が増えた」


 「手紙が減ったの」


 ミレナは紙を重ねながら、短く答えた。


 「二年前は、下市街の人々が持ってくるのは親戚への手紙がほとんどだった。今は、工房との取引の契約書、造形サービスの注文書、それから——陳情書」


 「陳情書」


 「近所に形成術師の工房ができて、朝から晩まで炉の音がする、という苦情。うちの前の通りに看板を出している形成術師が、隣の家の壁を勝手に形成した、という訴え。造形サービスの代金が先月と今月で違う、という疑問。——暮らしが変わると、紙の上の言葉の種類も変わるんだよ」


 ミレナは紙の束の下の方から、もう一枚を引き抜いた。


 「それから、こういうのも増えた」


 その紙は、ミレナの代書ではなかった。民衆が自分の手で書いた、文字の下手な一枚だった。


 「親戚の家の古い椅子を、形成術師に頼んで、別の形に作り直してもらった。作り直した椅子は、誰のものなのか——元の持ち主のものか、形成術師のものか、代金を払った自分のものか。家族で揉めてる。どうしたらいいか」


 ミレナは紙を元に戻した。


 「こういうのが、ここ半年で何件も来てる。——あたしには、答えられない。法律の本を見ても書いてない。代書屋の仕事の範囲を超えてる。でも、民衆は誰かに書いてもらわないと訴えも出せないから、うちに来るの」


 ミレナの声は、咎めの声ではなかった。困っている声だった。紙の上の言葉の種類が変わるだけなら、ミレナは追いかけられる。だが、紙の上の言葉に落とせない問題が、紙の上に落とせない形で、ミレナの机の前まで来ていた。ミレナはそれを聞き取っていた。聞き取っているが、整理はできていなかった。


 「こちらで預かっておく。書けない問いのまま、束ねておいてくれ」


 カイルは短く言った。ミレナは頷いた。頷いた時、ミレナは今朝の紙の束の上に、もう一枚を重ねた。





 リーネが二階から降りてきた。手に絵本の新しい頁を持っていた。


 「カイル兄、見て」


 頁の中には、小さな家の台所の絵が描かれていた。台所の竈の前に、煮炊き石が一つ置いてある。石の上に鍋がある。竈の横には、薪がない。薪がないことを、リーネは絵の中で強調してはいなかった。ただ、薪がある場所に、花が一輪、置いてあった。


 「これは」


 「薪を割らなくてよくなった朝の、一つのお話。——薪の代わりに花を買った女の人の話を、下市街の絵本屋さんに持っていくの」


 リーネの声は明るかった。二年前に絵本の翻訳を始めた頃の声より、少しだけ強い声になっていた。





 夕方、書斎に戻った。


 机の上に、今朝の視察の間にルッツが置いていった一枚がある。記録石の国内流通枚数の更新版。数字の行の末尾に、ルッツの小さな走り書きが一つ加えられていた。——「他国からの問い合わせ、先月より増加。コヴァルドの商家三件、マルカの港町二件、エテルネア学術院一件。具体的な取引交渉には至っていないが、関心の幅は拡大中」。


 カイルは走り書きを一度だけ読んだ。読んだ後で、紙を裏返して、裏の白い面に、今日の市場で見た三つの物を書いた。


 煮炊き石。温度固定箱。鮮魚。


 三つの名前の下に、少しの間を置いてから、もう一行だけ書き足した。——「魔素通貨、動かず」。そしてその下に、「古椅子の作り直し、誰のもの?」と、ミレナの束から引き取った問いを、書き留めた。


 ペンを置いた。三つの商品の名前と、二つの問いが、同じ紙の上に並んでいた。並んではいたが、互いに繋がる糸は、今朝の段階では、どれも見えていなかった。


 窓の外で、千年の木の葉が夏の夕の風に揺れていた。階下でミレナが陳情書の清書をしている音。二階の奥で、リーネが絵本の色を塗っている気配。東の離れから、ラウルの鉛筆の音。西の方角から、レオの型の踏み込みの音。——エリアは先週から近郊の農村を回っている。成長畑具の観察で、十数の農家を夏の間に歩くという。明日には戻る予定だった。


 五つの音の中に、今朝の市場の魚屋の女将の声が、まだ残っていた。「薪を割る必要がない」——その一言が、一つの石に畳まれた革命の、最も短い形だった。

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