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第5話 善意の支配者

着任式の前日、カイルは宰相府の資料室にいた。


 宰相オルデンから指示があった。「執政官の経歴を頭に入れておけ。明日の式典で、お前の目が何を見るべきかは——知っている者と知らない者では違う」。


 資料は宰相府が大戦前から蓄積していた外交記録と、占領開始後に大陸東部の妖霊族の国エテルネア——中立的な立場にある学術国家だ——の学術院を通じて入手した情報だった。トーヴァが棚から引き出してきた綴じ本は埃を被っていたが、中身は丁寧に整理されている。


 アルマン・ベルトラン。55歳。人間族。


 人間族の寿命は60年から80年。竜人の三分の一以下だ。55歳は——人間としては壮年の終わりに近い。竜人の感覚で言えば、オルデンの170歳と同じくらいの「重さ」があるのかもしれない。しかし実感はわかない。カイルの65歳は人間で言えば二十代前半。アルマンは自分の倍以上を生きて——あと十年か二十年で死ぬ。


 経歴を追った。


 軍人の家系に生まれた。祖父は対コヴァルド——鉱人族の軍事大国だ——の国境防衛の将軍。父も軍人。レガリオンという国は共和制を敷いている。王がいない。元老院と呼ばれる議会が国を動かし、軍は元老院の下にある。王族が治めるアストラードとは、根本的に仕組みが違う。


 レガリオンは大陸で最大の人口を持つ。四千万。アストラードの250万とは比較にならない。人間族は魔素との親和性が全種族で最も低い。個の魔法力では竜人はおろか、鉱人族や妖霊族にも劣る。しかし——数がある。組織がある。魔素を個人の力として使うのではなく、魔素製品に封じて兵士に配り、集団として運用する。一人では弱い。百人でも竜人一人に及ばないかもしれない。しかし千人、一万人が同じ装備で同じ訓練を受けて動く時——その力は個の才能を圧倒する。


 アルマンはその軍で30年以上の軍歴を持つ。対コヴァルド国境紛争、南方の海上交易路防衛。そして——大戦。


 大戦でアルマンは、竜人の魔法兵団と正面から戦った主要な指揮官の一人だった。「魔法に人間の戦術が勝った」象徴的な戦果を上げたと、レガリオン国内では語られているらしい。


 カイルは資料のその一行を読んで、ペンを持つ手が止まった。


 竜人の魔法兵団。戦死した次兄レイグが指揮し、平民出身の叩き上げの軍人バルトが精鋭を率いた部隊。——その彼らを破った男が、明日この街に来る。


 資料の末尾に、エテルネア経由の報告が付されていた。短い一文。「この人物は、竜人を『文明化すべき劣等文明』と本気で信じている。悪意ではない。確信である」。


 カイルはこの一文を記録に書き写した。





 翌朝。監督府の大広間。


 灰色の煉瓦。四角い窓。天井が低い——人間族の体格に合わせた設計だ。竜人がこの部屋に入ると、頭上の圧迫感がある。この建物の全てが「ここは竜人の場所ではない」と言っている。


 大広間の正面に壇が組まれ、レガリオンの旗が掲げられていた。鷲と剣の紋章——共和制の国には王家の紋章がない。国そのものの紋章だ。「全ての市民の力を結集する」という建国理念を象徴しているとされる。壇の周りにはレガリオンの官僚と軍人が並んでいた。揃いの灰色の軍服。竜人より小柄な人間族が、同じ服装で同じ姿勢で整列している。揃っているということ自体が——この種族の力の源泉だ。個では弱い。しかし揃うことで、強くなる。


 カイルは宰相オルデンの一歩後ろに立っていた。王族の「格」を持つカイルだけが、この場に入ることを許された。


 オルデンは何も言わなかった。背筋を伸ばし、左手を背に回し、壇の上を見ている。170歳の宰相は、この部屋で唯一角の布を巻いていた。角を隠した老竜人が、角のない人間たちの中に立っている。


 扉が開いた。





 監督府執政官アルマン・ベルトラン。


 壇に上がる前から声が響いていた。


「本日より、アストラード監督府の執政を務める。アルマン・ベルトランだ」


 大広間の隅まで届く声量。軍人の発声だ。声の大きさを調節するという概念がない——あるいは、調節する必要を感じたことがないのだろう。


 壇に立ったアルマンは、がっしりとした体格の人間だった。日焼けした角張った顔。茶髪を軍人らしく短くし、口髭を丁寧に整えている。胸には三つの勲章。大戦での功績——竜人の魔法兵団を破った功績の証だ。カイルはその勲章を見て、昨日読んだ資料の内容を思い出した。この男は、レイグやバルトのような竜人と正面から戦い、勝った。


 目が真っ直ぐだった。客席を——角を隠した竜人の官僚たちを——見渡す目に、嘘がない。


 演説が始まった。


「この地に秩序と文明をもたらす。それが我が使命であり、レガリオン共和国の意志である」


 善意に満ちた言葉だった。そしてカイルは——資料の最後の一文を思い出していた。「竜人を文明化すべき劣等文明と本気で信じている。悪意ではない。確信である」。


 この男は本気だ。竜人を見下しているのではない。竜人を「まだ人間の水準に達していない文明」だと——心の底から信じている。長命種族は時間に甘えて堕落する。人間こそが秩序の守り手だ。短い命だからこそ、一代で成し遂げようとする。——そういう世界観の中に、この男は生きている。


 カイルは記録を取りながら、奇妙な感覚に襲われた。この言葉を、聞いたことがある。言葉は違う。しかし構造が同じだ。


 竜人が周辺国に入った時も、そう言った。「竜人の保護」。周辺の弱小国に住む少数の竜人を保護する——それが介入の名目だった。「保護」と「秩序」。「文明化」と「保護」。言葉は違う。意味は——同じだったかもしれない。


 この男が属する組織は、三兄イルヴァンの処刑を執行した。その同じ組織の長が、今「秩序と文明」を語っている。


 そして——自分たちも、かつて同じことをしていた。





 式典の後、小部屋で実務会談が行われた。


 オルデンとアルマン。初の対面。カイルは記録係として同席した。


 小部屋に入ると、アルマンは真っ先にオルデンに握手を求めた。人間族の作法だ。竜人の挨拶は片手を胸に当てて頭を下げる。アルマンはそれを知っているのかいないのか、自分の作法で押し通した。


 オルデンは一瞬の間を置いて、手を差し出した。握手に応じた。カイルはオルデンの顎が微かに引かれるのを見た。不快のサイン。しかし声は穏やかだった。


「ようこそ、アストラードへ。宰相のオルデンです。閣下の着任を、心よりお待ちしておりました」


「宰相殿か。話には聞いている。あなたが全権を握っているそうだな」


「王家より委任を受けた身です。閣下の指導の下、務めを果たしたいと存じます」


「うむ。——そちらの若い方は?」


 アルマンの目がカイルに向いた。一瞬——角の布に視線が留まった。布で隠された角の輪郭を、アルマンの目がなぞった。


 資料に書かれていたことを思い出す。アルマンは大戦中、竜人の魔法兵が角を光らせて魔素を操る姿を見ている。角が光り、大地が裂け、百人の兵士が一人の竜人に殺された——その光景を、この男は知っている。だから角を見る。布の下にある角が何であるかを、身体で知っている。


「記録係のカイル・ヴァルドラークです。王家の末席に連なる者です」


 オルデンがカイルの代わりに答えた。


「ヴァルドラーク? 王族か」


 アルマンの声の調子が変わった。硬さが抜けた。代わりに入ったのは——好意だった。


「若い王子だな。お前の国の将来を背負う世代だ」


 レガリオン語だった。カイルはレガリオン語で答えた。


「恐れ入ります、執政官殿」


 アルマンの目が少し大きくなった。


「レガリオン語を話すのか。流暢だな。——気に入った。よろしく頼む、若い王子」


 好意だった。本物の好意。声が大きくなり、目尻に皺が寄った。人間の55歳にとって、人間換算24歳のカイルは息子のような年齢だ。竜人の王子を「息子のように」見ている——その感覚自体が、アルマンの世界観を映している。対等な他国の王族ではなく、導くべき若者として位置づけている。


 しかしカイルの中に残ったのは、好意への反発だけではなかった。アルマンの目尻の皺。笑う時の声の響き。それは——演技ではない。この男は本当に好意を感じている。嘘をつける人間は、こういう笑い方をしない。


 善意の中に差別が溶けている。溶けているから見えにくい。見えにくいから——反論しにくい。





 実務会談は一時間に及んだ。


 アルマンは明確だった。質問は短く、回答を求める時は相手の目を見る。決断する時に机を一度叩く。「それが最善だ」と言い切る。軍人の決断力。30年の戦場で鍛えられた判断速度。考えている間に部下が死ぬ世界を生きてきた人間の、迷いのない話し方。


 オルデンは低姿勢を崩さなかった。


「全て受け入れます。ただし——実行は我々の手でお許しいただきたい」


 この一文を、形を変えて三度繰り返した。アルマンが占領政策の方針を語るたびに、オルデンは「仰せの通りに」と頷きながら、最後に必ず「実行は我々の手で」と付け加えた。


 カイルは記録を取りながら気づいた。オルデンは方針に一切反論していない。全て受け入れている。しかし「実行権」だけは握っている。方針を決めるのはアルマン。実行するのはオルデン。——つまり方針の中身を実質的に設計するのは、実行者だ。


 従順に見えて、手綱を離さない。二つの仮面を同時にかぶる老人が、ここにいる。


 会談が終わり、アルマンが立ち上がった。「よろしく頼む、宰相殿」。握手。オルデンは応じた。顎は引かれたままだった。





 宰相府への帰り道。上市街の回廊を歩きながら、オルデンは一言だけ言った。


「有能な男だ」


 カイルは黙っていた。褒めているのか。貶しているのか。声は平坦で、どちらにも聞こえた。ただ——査定している。あの執政官を、道具として査定している。自分がそうされたように。


 宰相府の廊下で、トーヴァが待ち構えていた。


「殿下、どうでした? 執政官は」


「……大きな声の人だった」


 トーヴァが吹き出した。


「それだけですか」


「……善意のある人だと思う」


「善意、ですか。占領者に善意。珍しい組み合わせですね」


 トーヴァは笑いながら書類を差し出した。「あ、監督府から——降伏条件の正式通告の準備書類が来てます。来週、正式に通告するそうです」


 降伏条件。占領の正式な枠組みが、ようやく形になる。





 夜、記録を書いた。


 アルマンの言葉を全て書き留めた後、ペンを止めた。


 善意の支配者。この言葉が浮かんだ。


 アルマンは悪人ではない。目が真っ直ぐで、声が大きくて、嘘がない。「秩序と文明」を本気で信じている。竜人を「劣った文明」だと——本気で思っている。悪意ではなく。善意で。


 悪意ならば、戦える。嘘ならば、暴ける。しかし善意は——善意で差し出された手を、どう拒めばいいのか。


 そして——竜人はかつて、同じ善意を他の国に押し付けていた。「竜人の保護」。あれも善意だった。少なくとも、そう信じていた者たちがいた。


 窓の外で、光の谷がかすかに光っていた。

【豆知識:アルマンの正義】


レガリオンの監督府執政官アルマン・ベルトラン、五十五歳。祖父も父も将軍という軍人一家の出身で、大戦ではアストラードと直接戦った経歴を持ちます。

彼は「野蛮な竜人を文明化し、平和にする」という使命感に本気で燃えており、善意で国を支配し、善意のまま任を終えていく種類の人間です。カイルらにとって、この揺るぎない善意こそが最も交渉しにくい相手でもあります。悪意ならば弱点も露呈しますが、善意には手心が加わる余地がありません。



ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!

カイルの長く険しい戦いが、ここから静かに幕を開けます。

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