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出会いの季節

土曜日。念のため天気予報を確認してみる。大丈夫、今日は一日中よく晴れるらしい。お気に入りのチェック柄のポシェットに携帯と財布と最低限の荷物を詰めて玄関に向かう。

「出かけるの?」

 お母さんがちょうど脱衣所から出てくるところだった。

「うん。お城に行ってくる」

「そう!いい写真をよろしくね」

「分かってるよ。でも、あんまり写真とるの得意じゃないからね。じゃあ、いってきます」

 いってらっしゃい、というお母さんの軽やかな声は、動き始めたばかりの洗濯機の大きな音でほとんどかき消されてしまう。お母さんはそんなことには気にも留めない様子でスタスタと廊下を歩いていった。

 外に出てみると緩やかな風が吹いていて、この時期らしい空気に包まれる。心なしか足取りが軽くなる。そういえば、一人でお城に行くなんて何年振りだろう。お城までは家から歩いて約10分。それほど遠くはないけれど、生活圏とは微妙に方向がずれていて、特定の用事がない限り滅多に足が向かない。

 お城の近くには学校があり、歩いていると向かいから何人もの学生が自転車でやってきて、列をなして私の横を通り過ぎていく。今は昼過ぎだから部活帰りなのか、同じ柄のスポーツバッグが目に入る。私が中学生の頃にも友達同士で色違いのバッグを持つのが流行っていたな。懐かしい。

 そんなことをぼんやりと思い出しながら歩いていると、あっという間にお城の門の前に辿り着いた。問題はここからだ。目的地の天守閣へ向かうには、長くて傾斜が急な坂道を登らなくてはいけない。これさえなければもう少し頻繁に来るのに、と毎度溜め息がこぼれてしまう。

 覚悟を決めて、ゆっくりと坂道を登り始める。坂道にさしかかった途端に足元で傾斜の高さを感じて足が止まりそうになる。駄目だ、今足を止めてしまったらもう先に進めそうにない。最初が肝心なのだから、頑張れ私。

 自分に何度も言い聞かせながら足を動かす。マラソンで「心臓破りの坂」というフレーズをよく聞くけれど、まさにここがそうだ。心臓というか、先に足がやられる。段々と足が上がりにくくなり、背中にはじんわりと汗を掻いている。羽織っているグレーのカーディガンなんか脱ぎ捨てたい気分にさえなっている。

「ママー!早く、早く!」

 すごい勢いで私を追い抜いた女の子が、とびきりの笑顔で後方のママに手を振る。振り返ってみると、ぐったりした様子の女性が必死に女の子の元へと向かっている。

「待ってよー。ママ、疲れちゃった」

「えー、もうすぐなんだから頑張ってよ、ママ。先に行っちゃうよ!」

「一人は危ないから待って!」

 女性は慌てて女の子のすぐ傍まで駆けてくる。息も絶え絶えで苦しそう。遊びたい盛りの子どもの親って苦労するんだなあ。私にはあんな体力ないもんなあ。他人のことだと傍観できてしまう自分に少し驚く。

 その後も何人もの人たちに追い越され、やっとの思いで坂道を登りきる。足はもうガクガクなっているし、息もなかなか整わない。背中はぐっしょり湿っていて気持ち悪い。家を出発した時はあんなに軽やかな気持ちだったのに。もう少し体力をつけないと、来年のお花見に来たくなくなってしまいそう。

 息がだいぶ整ってくると、周囲の賑やかさに気付く。子どもたちの声。ボールが蹴られる音。多くの人が行き交う足音。そこかしこから聞こえてくるカメラのシャッター音。

 そうだ、私は写真をとる為にここまで来たんだった。あまりの坂道の厳しさにすっかり忘れていた。

「おおー!」

 思わず上がった自分の声の大きさに一人で勝手に恥ずかしくなる。誰もこちらを気にしていない様子で、また一人で安堵する。

 目の前に広がる景色は「綺麗」の一言に尽きる。雲ひとつない晴れ渡った空。そこに春らしい桜の花が鮮やかに映える。どっしりと構えた樹の幹は生命の力強さを感じさせる。見事だ。綺麗だ。さっきまでの疲れは暖かい風に乗せられて、どこか遠くへ運ばれてしまった。

 ふと、ポシェットの中から微かな振動を感じた。中を探ると、携帯が着信音を奏でながら震えている。電話だ。もう少しこのまま、感動に浸っていたかったのに。

「もしもし」

「奈月。もう写真とれた?」

 電話から聞こえてくるお母さんの声は穏やかで、微かにテレビの音も漏れ聞こえてくる。

「まだだよ。ついさっき着いたところだもん」

「そう。それで、桜はどんな感じ?咲いてる?」

「うん、満開だよ。すごく綺麗。お母さんも一緒に来ればよかったのに」

「そうねえ。でも、そこの坂、お母さんには結構きついんだよね。おばあちゃん、よく毎回登れてるわよ」

「たしかにね」

 さっき登ってきた道を思い返して苦笑いになる。

「写真、何枚かとってきてね。あと、美容院行くんでしょ?帰りは何時くらいになりそう?」

「あ!」

「どうしたの?」

「・・・美容院、予約するの忘れた」

 電話から高らかな笑い声が聞こえてくる。そんなに笑わなくてもいいのに。

「まあ、とにかく写真よろしくねー」

 自分の用件が済むと、お母さんはさっさと電話を切ってしまった。ツーっ、ツーっという電子音だけが耳元で虚しく響く。


「あの、すみません」

 溜め息をつきながら携帯をパタンと閉じていると、横から声をかけられる。

「すみません!電話うるさかったですよね!」

 まさか人に注意されるほど声が大きいとは思わなくて、恥ずかしくなって慌ててその場を去ろうとする。

「いえ、そういうわけではないんです」

 相手は少し困惑した様子でこちらを見ている。私より10センチほど背が高い男性だ。

「え?」

 私の方もはっきりと困惑して聞き返す。

「えっと、そのストラップ、知り合いが同じのを持っているので、どこで買ったのかなと思って。つい気になって」

 彼が言いながら、私の携帯にぶら下がっているウサギを指さす。白いウサギで首にオレンジ色のリボンを巻いている。

「・・・ああ。これは友達が旅行のお土産にくれたんです。どこのお土産だったかな」

 そうですか、と彼は穏やかな笑みを浮かべる。

「それと、折りたたみの携帯、珍しいなと思って。最近はスマホの人が多いから」

「ですよね。周りの友達は結構スマホなんですけど、まだ使えるからこのままでいいなと思って」

 2年前くらいからスマホが普及し始めて、周りは圧倒的にスマホ派が占めている。私も次に買い換える時はスマホにしようと思っている。

「実は僕もまだ折りたたみなんですよ」

 彼がジーンズのポケットから黒の携帯を取り出して見せてくれる。傷ひとつなく、まだまだ長持ちしそうだ。

「急に声をかけて、驚かせてすみませんでした」

 携帯を仕舞って、彼がぺこりと頭を下げる。

「いえ、そんな。大丈夫ですから。あの、お花見ですか?」

「はい。毎年ここに来てるので」

 頭を上げた彼が桜の方へと視線を流す。

「綺麗ですよね、ここの桜。私もお花見するならここです」

 私もつられて桜に目をやる。何度見ても美しい。

「天守閣の中には入られたことがありますか?階段がとても急だと聞いたのですが」

 気付けば、彼の視線は私に向けられている。

「私は一度だけ入ったことあります。階段、本当に急で、上るより降りる方が怖いですよ」

 どうしてこのお城は坂道も階段も急なのだろう。そうか、敵から身を守る為だっけ。そうは言っても、普段からこんな環境で暮らすのは大変だろうな。

「そうなんですね」

 また彼が穏やかに笑う。私より5歳くらい年上かなという印象だったけれど、笑うと更に大人っぽく見える。


「いた、いた!圭太郎ー!」

 女性が小走りでやってきて、彼の前で立ち止まる。

「もう、勝手にいなくなったら困るでしょう。人が多くて探すの大変なんだから」

「ごめん、ごめん。ちょっと歩いただけなんだけど」

「全く・・・。で、そちらのお嬢さんはお知り合い?」

 彼女が私の存在に気付いて尋ねる。

「いや、違うけど」

「え!?じゃあ、ぶつかったりしたの?ごめんなさいね、大丈夫でしたか?」

 彼女が本気で心配している様子でこちらを見つめてくる。

「大丈夫です。ぶつかってもいませんし、少しお話ししていただけですから」

「そうですか。それならいいんですけれど。それでは失礼しますね。圭太郎、行こう」

「うん」

 彼は私に軽く頭を下げてから、彼女の肘の辺りを軽く握ってゆっくりと歩き始めた。


 彼らを見送った後、気が済むまで桜を眺めてから写真撮影に取りかかった。とは言っても、本格的なカメラを持ってきたわけではないから、ポシェットから携帯を取り出してカメラ機能を立ち上げる。まずは桜の木が密集している辺りを空も入るように遠目からとってみる。次に、桜のアップを1枚。そして、天守閣と桜が両方収まる場所を探す。これがなかなか難しい。遠すぎても近すぎても上手く入らなくて、ちょうどいい距離感を掴むのに時間がかかった。


「なかなか綺麗にとれてるじゃない」

 苦労して取り終えた写真をお母さんに見せると、それなりに褒めてくれた。お母さんはテストの結果を見せた時もこんな感じで、悪い結果を見せてもたいして怒りもしないけれど、すごくいい結果を見せても盛大に褒めてくれることはない。

「じゃあ、この写真、おばあちゃんにメールで送っといてねー」

 それだけ言うと、お母さんは台所で晩ご飯の支度を始めてしまった。仕方ないから、私も自分の部屋に戻って早速メールを送ることにする。

 小学生の頃から愛用している勉強机の椅子に座って携帯を開く。メールの新規作成画面へ進み、宛先におばあちゃんのアドレスを選択する。次に添付する写真データを開いて確認する。よし、これが一番綺麗に天守閣と桜が収まっている。

 ここで、急に手が止まる。ウサギのストラップがゆらゆらと揺れているのが目に止まる。ウサギを指さした彼の肌白い指を思い出す。爪が綺麗に整えられていたなあ。

 そういえば、あの人はたぶんお母さんなのだろう。ちょっと心配性すぎる印象だったけれど、二人は仲がいいのだろう。私は一人っ子だし、男友達がほとんどいないからよく分からないけれど、大人になってからもお母さんと二人で出かける男性って少ないんじゃないかな。私と話している時はすごく大人っぽく見えた彼が、お母さんの前では少しだけ幼く見えた気がする。

 メールの本文を考えようとするけれど、どうしても彼の穏やかな表情が頭から離れてくれない。そういえば、私って初対面の人とあんなに自然に会話できるんだ、と純粋に驚く自分がいる。

 彼の声、落ち着いた聞き取りやすい声だったな。

 メール、別に今すぐ送らなくてもいいか。そんな気分になって、作りかけのメールを保存して、そっと携帯を閉じる。それに合わせてウサギがほんの少し揺れる。それを眺めながら、頬が緩んでいる自分に気付いて、誰に見られているわけでもないのに気恥ずかしくなった。

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