6話 ぺしょぺしょ
誰そ彼。
行き交う人の顔が溶け、誰が誰だか分からなくなる時間。
しかし、アステルたち三人の前を歩く、長い黒髪を靡かせるライラだけは、くっきりと見えていた。彼女から発せられる異様なまでの存在感に、思わず気圧されそうになる。
「そこの女!」
不意に、エイブルがアステルを指差した。
「アステルだけど」
「名前は聞いてねえよ!」
なんだこいつ……。
アステルは軽くため息を吐く。
「いいか! 俺はお前を見返してやる!」
「おっ! いいねえ少年!」
「エイブルだ!」
ライラに茶化され、勢いよく自分の名前を高らかに言うエイブル。
さっき自分で「聞いてねえ」って言ったのにな……。
本当になんなの。と、アステルは軽く眉をしかめる。
「絶対見返してやるからな! 覚えてろぉ!!」
エイブルは大声を上げながら走り去っていった。
「あは。面白いね、タンバリン君」
「シンバルです」
「あれ? そうだっけ? まあ、いっか!」
さあ帰るぞー、と再び歩きだしたライラ。
アステルはその後ろ姿をただ眺めていた。
「アステル?」
シリウスとフェリスがひょこっと顔を覗かせた。
「どうしたの?」
「ん。変な人だなって」
アステルが軽く微笑むと、二人も安心したように微笑み返す。
三人は足を揃え、家路へと歩き出した。
――ライラの家に着くと。
彼女が「料理を振る舞う」と言い出し、アステルたちは座って待つことになった。
フェリスは机に顔を伏せ、シリウスはそんな彼女を見つめ、アステルはその二人を眺める。
何もない。何もないからこそ、居心地が良い。
するとキッチンから「さあ! さあ!」とライラが現れ、料理と思われる「何か」を机にドンっと置いた。
「わっ……びっくりした……」
フェリスが顔を上げ、耳と尻尾がピンと立つ。
「子供たちよ。美しいお姉さんの手料理をたーんとお食べなさいな」
しかし。
料理を見たシリウスとフェリスの耳と尻尾は力なく垂れ下がり、アステルもまた言葉を失った。
「なに……これ……」
アステルの心の声を代弁するように、シリウスが震える声で呟く。
「みんな大好きカレーでしょ? あ、嫌いだったかな? でも好き嫌いは良くないと思うな。私も好きじゃないけどさ」
ええ……。とアステルは言葉を呑む。
「カレーって、紫色だっけ?」
「え? わかんない……。わかんないけど……」
シリウスとフェリスの視線が料理と互いを行き来し、最終的にアステルへと向けられた。
「見た目なんて胃に入れば同じだって。多分おいしいから!」
「あの……。普段何を食べているんですか?」
「買ってきたパンとかクッキーとかかな?」
「料理、するんですか?」
「っふ……。すると、思う?」
ええ……。
ライラ、シリウス、フェリス、そして料理。
アステルの視線が泳ぐ。
意を決してスプーンを手に取り、彼女がカレーと称する「紫色の何か」をおもむろに口へと運ぶ。
しかし、最後の一歩が踏み出せない。
「ほら。グイっと」
なぜか「飲み物を煽るような動作」をするライラ。
瞼をギュッと閉じ、アステルはそれを口に含んだ。
口の中に広がるのは、野菜やスパイスといったカレーの風味ではない。
この世の物とは思えない「未知」だった。
その未知なる何かを、何とか飲み込む。
「ど、独創的な……味、ですね……」
「独創的?」
その言葉に好奇心を持ってしまったのか、シリウスとフェリスもスプーンに手を伸ばそうとする。
「まって。……ライラさん、材料はまだあるんですよね?」
二人をこれに巻き込むわけにはいかない。
アステルは必死に彼らを制止した。
「え? あるけど」
「じゃあ、今日はシリウスとフェリスに作ってもらいましょう」
「ええ!? カレーあるよ?」
「今日は、シリウスとフェリスに作ってもらいましょう」
語気を強めるアステルに、ライラが首を傾げる。
「二人とも料理できると思えないけどなぁ?」
向けられる二つの視線。
シリウスとフェリスはキョトンとしていた。
「二人を舐めないでください。ある程度の調理は教えてます。マシな料理が出るのは確定しています」
「マシって……」
「二人とも、お願いしていいかな?」
「うん、わかった」
二人は立ち上がり、パタパタとキッチンへと向かっていった。
ライラは椅子に座り、机に突っ伏して顔をキッチンに向ける。
その視線を追うようにアステルも目を向けると、そこには尻尾を振りながら楽しそうに料理をしている二人の姿があった。
「あの二人さ、アステルちゃんが寝てる間ずっと元気なかったんだよ」
「え?」
「誰かの前だと強がってたけど。何か頼み事されてる時以外はずっとアステルちゃんの傍にいてさ……尻尾も耳もずっと垂れ下がってて、ぺしょぺしょだったんだよ」
「……そう、ですか」
心配かけちゃったな、とアステルは視線を軽く落とす。
「あの尻尾、あんなに揺れるんだねぇ。可愛いじゃん」
「当たり前です。自慢の家族ですから」
「ふふ、そっか」
ライラが小さく呟いた。
しばらくして、料理が運ばれてくる。
質素な野菜炒めと、スープ。
しかし、これでいい。
これが一番いいのだと、改めて思う。
迷いなく、料理を口へ運ぶ。
見た目通り、質素な味。
でも。
「おいしい」
アステルのその一言に、二人は尻尾を激しく振った。




