2.思い出の中の顔
「そう、俺はオズワルド。オズワルド・フリードだよ」
彼の言葉に、小さなころの記憶がふわふわとよみがえってくる。
あれは九年前の夏のこと。私はまだ、七歳の子どもだった。
私とビビアンは基礎の読み書きを覚え、少しずつ応用に手を出していた。しかし近衛騎士になるのだという明確な夢を持っていたからか、私のほうがずっと先に進んでいた。
家庭教師が私を褒めるのがよほど気に食わなかったらしく、ビビアンはことあるごとに私の自習の邪魔をしてくるようになったのだ。
仕方なく、私は本を抱えて屋敷を飛び出すようになっていた。
屋敷に隣接するミスティの街、そこの一角にある公園には、茂みをかき分けないとたどり着けない小さな空き地があった。周りを木々に囲まれた、秘密の小部屋だ。私はいつも、そこで本を読むことにしていた。
そしてある日、その空き地で知らない子どもに出会った。黒い髪に緑の目をした、同じくらいの年頃の子に。
「その、私たち……子どものころ、ミスティの街で会っています、よね……?」
おずおずと問いかけたら、すぐに返事があった。
「ああ、そうだね。きみは変わらず綺麗だよ。いや、前よりも綺麗になったね」
オズワルドは魅力的な笑みを浮かべ、そっと私の手を握ってくる。ちょっぴりきざったらしい態度に、どうしていいか分からない。
「こんなところで立ち話というのもなんだから、中庭に行こう。バラの香りに包まれてお喋りってのも、素敵だと思わないか?」
「そう……ですね」
子どものころに出会った、オズワルド。フリード侯爵家の、跡継ぎである息子。
フリード家の人たちはその夏、避暑のためにミスティの街のそばにある別荘に来ていた。
けれど彼の両親は忙しくしていて、寂しくなった彼は別荘を抜け出し、街に出てふらふらしていたのだそうだ。そうして、偶然あの場所にたどり着いた。
彼は真面目で、責任感が強かった。フリード家の跡継ぎとして恥ずかしくない自分になりたいのだと、彼はそう言っていた。
その出会いから、私とオズワルドは、何度もその空き地で会うようになった。フリード家の人たちが別荘を去る日まで、毎日のように。
あのころのことは、今でも昨日のことのように思い出せる。とても楽しい、きらきらと輝いた日々だった。
……ただ、記憶の中のオズワルドと、目の前のオズワルドがうまく結びついてくれない。
あのころの面影は、はっきりと残っているのだけれど……彼、ここまで社交的だっただろうか。子どものころの彼はとても礼儀正しくて、そのぶんちょっと腰が引けているところがあった。それにちょっと、気が弱いというか。
とはいえ、彼と別れてから九年が経つ。それだけあれば、印象が変わるのも仕方ないかもしれない。
そんなことを考えているうちに、中庭に到着した。よく手入れされたバラたちがあふれんばかりに咲き誇り、辺りにはとってもいい香りが漂っている。
学園を作るにあたって、王は設備に関しても口出ししまくったらしい。入学の前に当時の記録に目を通して、あまりのことに頭を抱えた。
中庭には花を植え、くつろぐのにちょうどいいテーブルや、もっと親しくなった者たちのためにベンチも置かれている。
花々がついたての役目を果たしているおかげで、周囲からの視線は適度にさえぎられている。そんなこともあってここは、男女が心置きなくお喋りをすることができる、そんな場になっていた。
ちなみに、腕に覚えのある者のために、馬術場や鍛錬場もきちんと整備されている。「ここで女性にいいところを見せてやるといいぞ」という、王の助言が記録に残っていた。
そういえば、「学問を通じて仲を深めるのもいいぞ」と言って、王は図書室のそばに自習室を山ほど作らせている。二人で一緒に勉強できるように。
……時の王の、何が何でも若者をくっつけたいという執念については、正直感服せざるを得ない。ただ、その若者の側の立場になると、少々……かなり居心地が悪い。
こっそりと渋い顔をしていたら、オズワルドが手近なテーブルに私を連れていった。そのまま流れるような動きで、椅子を引いてくれる。
腰を下ろして、正面に座ったオズワルドにそろそろと話しかけてみた。
「その、あなたは……ずいぶんと、立派になって……九年前よりずっと堂々としているというか……社交的になられましたね」
それを聞いたオズワルドが、にっと嬉しそうに笑う。
「ああ。俺だって、いつまでも子どもではいられないからね。不得手くらい、克服しないと」
彼は身を乗り出してきて、目を細めた。自分の魅力をよく分かっている、そんな自信たっぷりの笑みだった。
「侯爵家の当主としてうまくやっていくには、人脈はあって困るものじゃない。そしてこの学園には、様々な立場の貴族の子女が集まる。交友関係を広げるには、もってこいだろう」
そう言って彼は私の手を取り、甲にそっと唇を落とす。
「そんなときに、きみに再会できてよかった。この学園生活の、幸先のいい始まりだね」
「あ、あの、私は……前と変わらず、近衛騎士を目指していますので……」
しどろもどろになりながら、そう答える。なんというか、彼はすっかり魅力的になってしまった。というか、なりすぎた。
そして私の言葉を聞いたオズワルドは、一瞬不思議そうに目を見張った。けれどすぐに、苦笑を浮かべる。
「そうか、そうだったね。ただ、もったいないな。きみなら、当主を支えるいい奥方になっただろうに」
かつての彼は、こんなことは言わなかった。これが、大人になるということなのだろうか。
少し寂しく思っていたら、いきなりすっとんきょうな声がした。
「まあっ、コレット! 姿が見えないと思ったら、さっそくこんなところで男探し!?」
「あ、いえ、遅刻した者同士、時間をつぶしていただけで……」
「彼女、きみの知り合い?」
「妹なんです。色々あって、二人同時に入学してきました」
オズワルドにそう説明して、足音も荒く近づいてきたビビアンに彼を紹介する。
「まあっ、オズワルド・フリード様ですって!?」
するとビビアンは、目をきらきらさせて両手で頬を押さえた。そんな彼女に、小声でささやきかける。
「……知っているのですか?」
「知ってるも何も、フリード侯爵家はこの王国でも一、二を争うほどに歴史のある名家よ! 逆に、あなたが知らないのがおかしいわ!」
「……貴族の社会には、興味がないもので。それでは私は、これで」
前のめりになってオズワルドに話しかけるビビアンを置いて、その場を立ち去る。背中に、オズワルドの視線を感じながら。
そうして寮の部屋に戻り、のんびりと荷物を整理する。すると、足音も荒くビビアンが帰ってきた。姉妹ということもあって、すぐ隣の部屋なのだ。……できれば、もっと離れた部屋にしてほしかったのだけれど。
「ねえコレット、わたくし、オズワルド様との逢引の約束を取りつけたのよ!」
「はあ」
「なによ、うらやましくないの?」
「……いえ、別に」
繰り返すが、私は恋愛に興味はない。私が望むのは、近衛騎士になること、ただそれだけ。
それはまあ、オズワルドとは面識があるけれど……今の彼は、あのころの彼とはかなり印象が変わっている。そのせいか、正直言って懐かしいという感じもあまりない。
それに私たちの道は、もう分かれている。彼はフリードの次期当主として婚約者を探し、私はただひたすらに心身の鍛錬に精を出す。それだけ。
私から思ったような反応が得られなかったのが面白くなかったのか、ビビアンはすぐに部屋を出ていってくれた。
その日は、寝台にもぐりこんで目を閉じたとたん、すとんと眠りに落ちた。そうして、ふわふわとした夢を見た。