『笑って』
生前の弟にはまるで似つかわしくない、厚い雲に覆われた空の下で、弟の葬儀は執り行われた。
幼子の葬儀ということで、遺影の周りには幾多の花
ではなく、玩具や風船で装飾が施されていた。
その中心に居る写真の中の弟は、どこまでも純粋な顔で笑っている。
ふと、弟が元気だった頃を思い出す。
弟は俺と違ってよく笑う奴だった。
喜怒哀楽の喜と楽しか持っていないんじゃないかと
思う程いつも笑っていて、逆に喜と楽を失くした俺とは、兄弟とは思えない存在だった。
部屋の中で俺が本を読んでいるときは、弟は外で走り回って笑っていた。
俺が部屋の中でパソコンを弄っているときも、弟は昼ごはんを食べながら笑っていた。
俺が部屋でスマホを触っているときには、弟は俺の隣に来て笑っていた。
とにかく笑うしか脳のない、まだ社会の黒い部分を知らない純粋な子供だった。
事あるごとに大げさに笑い、怪我をしたときや親に怒られているときでさえそれを手放さず、頭の片隅にはいつも弟の笑い声があった。
そんな弟は、俺を見てよく言っていた。
「お兄ちゃんが笑わない」と。
そんなつもりはなかったのだが、今思えばそうだったのかもしれない。
笑うという事を意識したことはないが、小中高と友達ができずに本ばかり読んでいた俺は、たしかに笑い方を忘ていたんだと思う。
そんな俺を笑わす為か、いつの間にか覚えていた変顔を披露してきたり、誰か分からない芸能人の物真似をしてきたり、かくれんぼに誘ったりしてきた。
弟はどこまでも優しい奴だった。
しかし、どこまでも弟という存在だった。
俺は歳の離れた弟と遊ぶよりも、本を読でいる方が好きだった。
一分一秒でも一人になりたかった俺は、弟が関わってくるのを執拗に拒んでいた。
それでもしつこく弟が絡んできたときには、喧嘩したこともあったし、泣かせたこともあった。
なんで遊んであげなかったんだろう、なんて最低な兄だろう。
弟は俺の為に、笑って欲しいと思ってくれていたのに。
もう遅いというのに、今になって後悔する。
失ってから気づくというのは、こういう事を言うのだ
ろう。
そんな俺が思い出せる限りで、一度だけ弟の前で笑ったことがある。
たしか、あれは弟の誕生日だった。
家に飾る装飾の風船を、まだ筋肉や肺活量が足りずに膨らませなかった弟が「お兄ちゃん膨らませて」と頼んできたことがあった。
仕方なく風船を膨らませてやると、弟がとても嬉しそうに笑う顔を見せたので、なぜだかそれを見て笑ってしまった。
あのとき弟は「お兄ちゃんが笑ったー!!」とか言って喜んでたっけ。
俺も人間なんだから笑うっつうの。
あぁでも、可愛かったな、あの顔は......
もっといろんな表情を見てみたかった......
あの時もっと笑ってやれば良かったと思う。
もうすぐ笑えなくなると分かっていれば、俺は笑ってやれていたのだろうか。
弟はそれから間も無くして病気になった。
最初はただの風邪だと思っていたが、どうやら違ったらしい。両親から入院が必要だと伝えられたときは少し驚いたが、まさか死ぬ程の病気だとは思っていなかった。
しかし弟はいつまで経っても退院する事はなく、入院して1ヶ月が経って初めて面会が許された時に、その病気の深刻さが一目で分かった。
ふっくらとしてした頬や腕は、栄養失調の子供のように痩せこけていて、小さな体に通された何本もの管と、小さな顔に付けられた酸素マスク。
前の弟とは思えないほど衰弱しきっていた。
けれど弟は面会に来た俺に気づくと、優しく口角を上げた。
とても優しい目で、大丈夫だよと言っているみたいに。
明らかに大丈夫ではないそんな弟の目を、俺はただ見詰めることしかできなかった。
弟の容体は悪くなる一方だったが、辛い検査の後も、辛い手術の後も、自分の力で立てなくなっても、それでも弟は笑っていた。
けれどその笑顔は、俺や家族に心配をかけないようにする為の、作り笑顔のようにも見えた。
「お兄ちゃん、なんで泣いてるの?」
面会をする度に、掠れた声で弟はそう言っていた。
弟の前では出来るだけ明るい表情を意識していたのだが、できなかった。
いくらこちらが笑おうと心がけても、無理にでもそれ以上に笑おうとする弟を見て、いつも最後は、涙を堪える方に必死になっていた。
医者に「今日が山場でしょう」と言われた日の夜、
弟は死ぬ間際にこう言い残した。
「お兄ちゃん笑ってよ」と。
もう笑う気力さえ無い筈の弟が、それでも笑って俺のことを心配していた。
自分が死ぬ直前だと言うのに、それでも俺を笑わせようとしてくれていた。
しかし、弟が最後の最後、息を引き取るその瞬間まで、俺は笑ってやれなかった。
弟は死ぬ直前まで俺の事を気に掛けてくれていたというのに、俺は弟の最後の願いも叶えてやれなかった最低な兄だった。
こんなダメな兄を見て、弟はどう思っていたのだろうか。
俺は弟が泣いている所を余り見たことがない。
多分俺のせいで、弟は泣けなかったんだと思う。
俺が笑わなかったせいで、泣きたいときも泣けなかったんだと思う。
きっと死ぬ間際も、本当は泣きたかったはずだ。
なんで笑ってやらなかったんだろう。
俺が笑っていたら、弟は泣けたのだろうか。
きっと別の兄の所に生まれていた方が、弟は幸せだったと思う。
こんなクソみたいな俺の弟より、もっと優しい兄の所に生まれていた方が弟は幸せだったと思う。
でも、もう遅いかもしれないけれど、言わせてほしい。
俺はお前が弟で嬉しかった。
こんなお兄ちゃんでお前はうんざりしていたかもしれないけど、俺はお前のお兄ちゃんになれて良かった。
笑ってあげられなくてごめん、泣かせてあげられなくてごめん。
きっとこの先の人生で、もっと色々な表情を覚えて、
成長していく姿を見てみたかった。
弟はどんな大人になっていったのだろうか。
友達がいっぱいできて、いっぱい遊んで、いっぱい笑って。
俺とはまったく違う高校生になって。いつかお兄ちゃんとも呼ばなくなって。
いつか俺だけじゃなく、皆を笑顔にするような、そんな尊敬される人になって。
いつまでも俺の自慢の弟で居てほしかった。
いつまでもお兄ちゃんと呼んでほしかった。
俺は最後の最後まで最低な兄だった。
最高の弟を持った、最低な兄だった。
もう一度お前に会えるのなら。そのときは笑って遊んであげたい。
もう一度、お前の笑った顔を見たい。
そんな取り返しのつかない後悔に蝕まれていると、遺影の横に飾られていた風船の空気が抜けて、俺の元に飛んできた。
それはまるで、いつかの弟が「お兄ちゃん、風船膨らませて」と言いながら駆け寄って来るように見えた。
手で握り潰したように、シワシワになった風船を見て思う。
これを膨らませてあげれば、弟はこんなダメな兄を許してくれるだろうか、笑ってくれるだろうか。
こんな事でしか償うことはできないけれど。
こんな事でしか兄らしい所は見せられないけれど。
いいよ、膨らませてあげる。大きな大きな風船を。
だから許してほしい、こんなダメなお兄ちゃんことを許してほしい。
そう願いをこめて、俺は風船を膨らませた。
また、弟は笑ってくれただろうか......
膨らませた後、俺はその風船を空に飛ばした。
風に乗った風船が空高くに飛んでいく。
それを目で追っていると、弟がどこか遠くに行ってしまうような感覚に陥った。
待って......待ってくれ
まだ俺はお前に何もしてやれてない、笑ってあげれていない。
もっとお前と一緒にいたい、もっとお前の笑った顔を見たい、もっとお前に「お兄ちゃん」と呼んでほしい。
「行かないでくれ......」
きっと、こんな不甲斐ない兄を見ていたのだろう。
「お兄ちゃん笑ってる?」
え?......
聞こえるはず、もう聞けるはずのない弟の声。
空を見上げる。そこにはもう手の届かない所までいってしまった風船があった。
分厚い雲の間から差し込んだ一筋の光が、俺と風船を照らす。
そうか、そうだよな、泣いちゃだめだよな、笑ってないとだめだよな。
うん、大丈夫。
もう心配しないでいっていいよ。
今、お兄ちゃん笑ってるから。