the worst is coming here
『恒山の蛇の如し、だな』
その声を仁吉が聞いたのは、どこかよくわからない場所だった。
間違いなく、先ほどまで仁吉が義華と戦っていた校舎の中ではなく。当然、義華の姿もない。
その代わりに声の主――見知らぬ男性がいた。
頭に白い巾を巻いて長髪を束ね、あごひげを蓄えた壮年の男である。その服装は中国の時代劇に出てくるような、男物の浴衣を荘厳にしたような青い衣服であった。
「……貴方は?」
『ふむ、しかし私が喚ばれてしまったか。彼の性情や戦い方からすれば子龍殿や鵬挙殿のほうがよほど相応しいはずだが――』
男は仁吉の質問に答えない。
そして仁吉にはわけのわからないことを言いながら、仁吉から少し離れたところで歩いている。
「というか、ここどこですか?」
『ふむ、やはり彼と私の間に縁があるが故に、引っ張られてしまったか。おっと――今は“彼女”だったか』
やはり男は答えない。
そして相も変わらず、仁吉の周りを回るように歩いている。
「あのー……。僕、死にかけてるはずなんですけど?」
『しかし、なりたくてなったわけではないが、やはり仙人などという人でなしにはなるものではないな。かつての友の魂の――醜く女のように腐り果てた様など、ここから感じるだけでも気持ちのいいものではない』
男は相変わらずであった。
ついに仁吉は我慢の限界に達した。思い切り走って行って、男に飛び蹴りをかましたのである。
「いい加減にしろよ!! 俺、死の崖っぷちなんだって言ったよな!?」
男はそれを躱しすらせず、しかし仁吉の蹴りは男には不思議と届かない。まるでその間に見えない壁があるかの如く、足が止まったのだ。
そして男は相も変わらず、何事もなかったかのように歩き続ける。
『しかし、ふむ――。不八徳に八荒剣か。まさか彼がその枠の中にいるとは、随分と鬼の定義が広いものだ』
「おい会話しろよ!! 一人でうだうだと難しいことばかり言いやがって!!」
仁吉は男に殴打や蹴りを何度も放っているが、それらはまるで霞を攻撃しているように手ごたえがない。男は一度も避けるような動作などしていないのに、まるで攻撃が通じていないのだ。
『と、すまない。いたのか』
しかしそこで、ようやく男は立ち止った。
まるで、そこで初めて仁吉を認識したかのような口ぶりで話す。
「いたのか、じゃない!! ずっといたよ!!」
『それはすまない。思考を巡らせる時は口を動かし、体を動かすのが私の癖でね。そうなると周りというものが見えなくなってしまう』
「――それは随分とはた迷惑な悪癖ですね」
男は謝った割には、態度が堂々としていて悪いと思っている風ではない。
ここまでふてぶてしくされるとかえって清々しいと、仁吉は諦めるように目を伏せた。
「ま、そのことはもういいですよ。それよりも現状と貴方のことを簡潔に、迅速に説明してください」
『ふむ、随分と落ち着いているな』
「訳のわからないことに驚くのに疲れただけですよ。今だって理解できないことへの疑問や混乱はありますけどね。それでも、人語が通じるだけ虎よりもいいな、なんてことを考えてしまうくらいですからね」
少し前にも仁吉は似たような経験をしている。
戦闘の最中、死ぬかもしれないという直前に不思議な虎が現れて自分を――おそらく、助けてくれた。実際には何が起きたかまるでわかっていないのだが、結果だけを見れば助けられたということになるのだろう。
しかしその時の相手は虎であり、会話など当然できなかった。
だから、その虎には悪いが今のほうが少し状況としてはやりやすいと思うのだ。
そもそもとして、なぜ自分が死にかけた時に限って虎や見知らぬ男性が現れて助けてくれるのかという疑問があるのだが、仁吉はそれは敢えて考えないようにしている。考えてもきっとわからないことだろうし、意識しすぎると追い詰められた時に無意識に頼りにしてしまいそうだからだ。
助けてもらえることはありがたいが、それがどういう条件で発動しているかがわからない以上、無暗にそれをアテにするのは危険だという考えが仁吉にはある。
しかし今は今だ。
助けなのかはわからないが、何か戦いの攻略のための手がかりでも貰えれば御の字だと思っている。
仁吉は正々堂々ということに拘りはなく、生き延びる、身内や友人を死なせないなど、その状況下における目的が果たせるのであれば大抵のことに妥協する。
いや――せざるを得ないとわかっているのだ。
『ふむ、なるほど虎か。それで――。いや、今はその話をしている場合ではないな。では拙速にいくとしよう仁吉。お前はもう、戦うための力を手にしている』
「……それは、あの虎の鉤爪のことかい?」
『そうだ。お前が真に覚悟を持ち、立ち向かうことを決めたのならばそれは必ずお前の元へ現れる』
「覚悟……」
『そう、覚悟だ。智慧、信頼、仁義。勇気、威厳――。この五つを備えよ。足らぬならば補う術を考えろ。何者をも恃みとせず、しかし独りよがりに戦うことをするな。ならばその道の果てに勝利は必ずある』
男がその話をしている最中に、空間は段々と消滅しかけていた。
それはまるで夢が醒めるときのような、なんとも形容しがたく、気が付けば終わっているような不思議な感覚である。
「……要するに、腹を括れってことですか」
『そういうことだ。気張りたまえよ』
そう言って男は笑った。
そして――仁吉の意識は現実に戻される。
その手の中には、前に蛇の怪物と戦った時に握っていた白い珠があった。
目の前には全力の殺意を持って刀を振るってくる義華がいる。躱せる距離ではない。逃げられる立ち位置ではない。しかし、仁吉の心に畏れはなかった。
しかし、仁吉がその言葉を口にしようとするより先に、義華の体は真横――階段を駆け上がってきた誰かの体当たりによって吹き飛ばされる。
そして、義華を吹き飛ばした相手は、親しい友人を見るような心穏やかな顔をしていた。
「あれ、南方先輩じゃないですか?」
対して仁吉は、奥歯をギリ、となるほどに強く噛みしめて、睨み殺すほどの形相をした。
「茨木……泰伯……!!」




