everything but the moon
「よっちゃん、結局今日は来なかったね」
「昨日はあんなピンピンしてたのにねー。今日体育だからフケたか?」
放課後。
玲阿と忠江は中庭にあるベンチに座ってぼんやりと空を眺めていた。
「てかさーレアチ、部活いかなくていいの?」
「もう少し時間には余裕あるからいいよ」
「そっか。そんじゃちょい相談に乗って欲しいんだけどさー。レアチって漢字強い?」
唐突な質問に玲阿は首を傾げる。
その間に忠江は自分の鞄の中をごそごそと漁り、何枚かのメモを取りだした。
「どうしても夢が気になってさ。そしたら変わった先輩がアドバイスくれたわけよ。図書委員長に占ってもらうといいって」
「変わった先輩?」
「うん、猫みたいな先輩。初対面だし名前も知らにゃい」
「……猫みたいな先輩ってどんな人?」
忠江の例えがどのようなものなのか、玲阿にはまったく想像が付かなかった。
そして聞き返された忠江も困ったような顔をしている。
「うーん、ほんと難しいんだよね。言葉にするのは難しいというか、そうとしか言えないというか。てか本筋はそれじゃないんだわ。そんでまあ言われた通りついさっき図書委員長に占ってもらったわけよ」
「図書委員長ってどんな人だっけ? というか忠江ちゃん、仲いいの?」
「うんにゃ、さっきが初対面」
このコミュニケーション能力がどこから来るのだろうかと玲阿は思う。初対面の相手とまるで十年来の友人のように接し、年齢や立場の差というものをあまり気にしない。それでいてすっと他人の懐に入っていくのは間違いなく忠江の特徴の一つだ。
「で、漢和辞典占いってのをしてもらったわけよ」
「次から次に疑問が湧いてくる会話するのやめてくれない?」
「無限の好奇心、未知への探求……。フッ、これが若さか」
忠江は映画やドラマで年寄りが主人公に過去の自分を重ねるような、どこか遠い目で語り掛けるようなニヒルな笑みを浮かべた。
「同い年でしょ!?」
当然、玲阿は突っ込みをいれる。
忠江は時折こういう小芝居をするのだが、玲阿はその度に律儀に突っ込みをいれている。その律儀さ故に忠江は何度もこのようなことをするのだということに玲阿は気づいていない。
「んでその漢和辞典占いってのがね」
「……うん」
マイペースに話し続ける忠江に、玲阿はとりあえずツッコミを放棄した。
「ひたすらサイコロ振り続けて漢和辞典から無作為に抽出した漢字を組み合わせて単語作ってその人の今を見出だす、らしいよ」
「……どゆこと?」
「えっとね、サイコロと漢和辞典でやるオリジナル占いらしいんだけどさ。まず二十面サイコロ振って抽出する文字数を決める。決まったら十面を四つ振ってページを決めて、そのページの頭からいくつめの漢字にするかを八面で決めるの。んでこれを最初に決めた文字数回だけ繰り返す……って手順だったはず」
「……二十面とか八面とかって何?」
「そのまんまじゃんよ。面が二十とか八つとかあるサイコロ」
そんなものがあるのかと玲阿は感心したような顔をしている。
そういったサイコロはボードゲームを嗜む人間には身近なものではあるが、普通の人間にはあまり馴染みがない。
「んで選ばれたのがこの六字ってわけ」
そう言って忠江が見せた六文字の漢字は、『盗』『堕』『丹』『奔』『仙』『月』だった。
『丹』を除けば馴染みのあり、意味も読みもだいたい分かる漢字だが、こうして羅列で出されると何を表しているのかがさっぱりである。
「たぶんなんかの単語になるんだろうけどわかんないんだよねー」
「……そもそも、この占いの精度に言及しようとは思わないの?」
「それ言ったら身も蓋もないからね。正直、他にとっかかりもないしとりあえずこの結果に真面目に向き合ってこうかなと」
「そんなにしんどいの、その夢?」
「まー、なんだろね? しんどいってのもあるんだけどさ、なんかこう……目を背けちゃダメな気がすんだよ。たかが夢、されど夢っていうのかな? でもなんでそんな風に思うのかは私自身にもわかんなくてさ。だからその理由が知りたいんだ」
そう語る忠江はとても真面目な顔をしていて、だからこそ玲阿は、いいかげんに答えてはいけないと強く思った。
「わかったよ。私は漢字はあまり得意じゃないけどお兄ちゃんなら何かわかるかもしれないから聞いてみるね」
玲阿はそう言ってそのメモを写真に撮って控えた。
「そーいや今までちゃんと聞いたことなかったけどレアチのお兄さんってどんな人なの? イケメン?」
「うんイケメン!! もうすっごく格好いいんだからね。私の自慢のお兄ちゃんだよ。生徒会の副会長やってて勉強もできるし、それでいてとっても優しいよ」
「うわー絵にかいたようなハイスぺだねー。リアルにそんな人間いるんだ。そりゃさぞかしモテるんでしょうね」
「……どうなんだろうね?」
玲阿の歯切れが急に悪くなった。何か言いにくいことがあるというわけではなく、純粋にわからないという表情だ。
「そういう話、お兄ちゃんからも他人からもまったく聞かないんだよね。隠してるって感じもしないしさ」
「……なんか闇感じんだけど。というか副会長っていえば確かに、クラスでも噂になってたよね。ジャニーズ系のめっちゃ爽やかなイケメンって話だったけど、それで今まで浮いた話ないってさー」
「もしかして男の人が好きなのかな?」
「……そうだとしたら、レアチ的にどうなのよ?」
「別にいいけど?」
あっけらかんと玲阿は言う。
「ま、まあいいか。多様性の時代だしね」
「でもそういう風でもないんだよね。なんかこう、恋愛とかに興味なさそうな感じがする」
「アセクシャルってやつかねー? 他人にそういう感情をまったく抱かないってやつ」
「わかんない。あーでも、お兄ちゃんがそうだったら嫌だなーとは思うよ。だってお兄ちゃん、生活能力ゼロだもん」
「外面はいいけど家だとだらしないみたいな感じ?」
「だらしないというか……うーん、なんていうのかな。ゼロはちょっと言い過ぎだけど、えっとね――」
玲阿が頭の中で考えていることをどう説明していいかわからずに悩んでいる時に、忠江は急に頭を押さえて蹲った。
「え、どうしたの忠江ちゃん!!」
玲阿はすぐに姿勢を落とし、忠江の背中をさすり、頭を撫でる。
「う、うぅ……。痛い、苦しい……。ごめん、なさい。ごめんなさい……」
うわごとのように忠江は呻いている。
「謝らなくていいよ!! 頭が痛いの? 保健室いこう!! 歩けそう? 無理なら私、先生を呼んでくるから!!」
「違う、違うの……」
「頭じゃない? 他のところが苦しいの?」
「私は……ただ……帰りたい、帰りたかった、それだけだったのに――」
忠江のうわごとはますます酷くなる。それは玲阿に言っているのではなく、そこにいない誰かに対して弁明しているようで――。同時に、自分を責めているようでもあった。
忠江の双眸からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれている。詳細はまるでわからないが、ただ事でないことは嫌が応にも伝わってきた。
「待っててね忠江ちゃん。今、先生を――」
「……うん」
その時、急に忠江の声がひどく落ち着いたものになった。
そして、立ち止まった玲阿の目をまっすぐに見つめて言う。
「そのまま、逃げて。レアチ――」
苦しみながらも玲阿を案じるように、両目に涙を浮かべて笑った。
その直後。
忠江の体が、人間ではない異形へと変質した。