the worst is yet to come_4
そうして放課後。
仁吉は恐怖を必死になって包み隠しながら義華と一緒に校舎を回っていた。
「すいませんね南方くん。私と一緒に見回りなどしても退屈でしょう?」
義華はそういって笑った。
仁吉は、
「そんなことないですよ」
と首を横に振りながら答えつつ、内心ひやひやとしている。
義華は背丈も仁吉より小さく、いつも笑顔の絶えないおしとやかな女性だった。長い髪をポニーテールにまとめあげ、ワイシャツの上から紺色のカーディガンを羽織り、ぴっちりとした黒いズボンをはいている。
どこから見ても大人の女性といった感じである。
年齢は、信姫曰く二十代とのことであり、大人びていて外観から年齢は分かりにくいがそう言われて違和感はない。
授業中もホームルームの時でも怒った姿を見たことはなく、いつも心に余裕があるように見える。
少なくとも、怖いという印象の対極にいるような教師であった。
(なのになんで、近くにいるとこんなにも圧を感じるんだろう?)
あまり下世話な話を好まない仁吉でも、綺麗な人だと思う。しかしその美しさというのが仁吉にはどうにも、白刃の煌めきのようなものに感じられるのだ。
剣道部や一部の不良生徒からは鬼教師と呼ばれているが、そう言った生徒相手には対応を変えているという話も聞かない。
そして大半の一般生徒からは普通に優しくて頼りになる先生と認識されている。
ではなぜ仁吉は、特に不良というわけでもないのに義華を怖いと思うのだろうか。
理由の一つに、義華に全く隙がないからというのはある。
武道的な観点から見て、あくまで仁吉の認識ではあるが義華には一縷の付け入る隙もないのだ。
例えば――そう、あくまで例えばだが、仁吉は今義華の背後に立っている。気配を殺してその手を取り、投げ飛ばそうとしたところで、きっとその前に竹刀で眉間か鳩尾を突かれることだろうという確信が仁吉にはある。
ではもし義華が竹刀を持っていなければ。
やはりあっさり躱されるか、行動に出る前に手を抑えられてしまうだろう。
もちろんそんなことを試したことはないし、仁吉は常日頃から他人の隙を見つけては投げれるかどうかなどと物騒なことを考えているわけではない。
義華に対しては、本当にふとそんなことを感じたというだけのことなのだ。
(つまり、どう足掻いても勝てそうにないから、僕はこの先生が怖いのか?)
そう考えて、すぐに仁吉はその考えを否定する。
(蔵碓には未だに一回も勝てたことないしな)
仁吉は時たま蔵碓と組手をしている。
流派はおろかそもそもの修めている武術が違うのだが、これも鍛練と言うことで仁吉が頼み込んでいるのだ。
しかし仁吉は七歳の時から今まで、ただの一度も蔵碓に勝てたことはない。
二人の間には大きな体格差がある。しかしそれは問題ではない。そもそも仁吉が修めている武術とはそういう体格の不利をものともしない。
事実、仁吉は相手次第では大人と勝負しても勝ったことはある。しかし蔵碓には勝てないのだ。
だからといって蔵碓が怖いかと訊かれるとそんなことはない。
ではこの感覚は何なのだろうか。仁吉がそう考えていると、
「おや、どうしましたか南方くん? 何か物思いに耽っているようですが、悩み事でも?」
義華は急に立ち止まって振り返り、仁吉に聞いた。
仁吉としては特に思考を口に出したつもりもなければおかしな挙動を見せたわけでもないのだが、しかし義華は仁吉の様子が何かおかしいと感じたらしい。それも面と向かった状態でもないのにだ。
(……僕が怖いのは、この人のこういう妙な感の良さだろうか?)
と少し思うがそれは口には出さず、
「いえその……先生は流石に剣道をやっておられるだけあって立ち居振舞いに無駄がないなと感心してまして。変な視線を感じさせたのならすいません」
と、全くの嘘というわけでもない言い訳をした。
「それはどうも。羽恭先生の愛弟子さんに褒められると悪い気はしませんね」
「先生と知り合いなんですか?」
羽恭というのは紀恭の父親で、仁吉にとっては武術の師にあたる人物だ。
「ええ。昔、色々とありましてね」
含みのある笑いだった。
「……色々と?」
「ええ。ああ、安心してください。不貞とかそういう話ではありませんので。ですが、出来ればこれ以上訊かないでください。あまり話したくないので。――若気の至りというのは、誰にでもあるものですから」
それは自分の黒歴史を思い出したような、少し気恥ずかしそうな顔だった。大人びた女性が不意に見せる無邪気な笑顔そのものであり、可愛らしいと形容してよいものだった。
しかし仁吉には全くそう思えない。
(何したんだこの人!?)
むしろ、義華に対する恐怖が増したような気がした。目を伏せ、その上で顔を横にそらしながら、
「…………わかりました」
と答えたが、その動作はとてもぎこちない。
好奇心が働かないわけではない。それこそ羽恭に訊けば普通に教えてもらえるだろう。
しかし知ってしまったが最後、これから一年の学級生活が針のむしろに座っているような心地になるだろうという予感がある。
(触らぬ神に祟りなしだ)
何も聞かなかったことにして、このまま忘れてしまおうと決めた。
この時の仁吉はまだ知らない。
仁吉の密かな決断などあっさりと吹き飛ばし、これから一年の仁吉の学級生活を、針のむしろはおろか剣山の真ん中にいるがごときものへと変えてしまう事件が起きるということを。