she is hostess of barbaroi_2
「ふはちとく?」
信姫にそう言われて、しかし仁吉は頭の中で字を想像出来ず、おうむ返しのようにそう繰り返した。
「ええ。呼んで字の如く、八徳を否定する者という意味ですよ」
「どのあたりがどう、呼んで字の如くなんだよ? というか八徳ってなんだい?」
「あらあら、南方くんは勉強が足りていませんね。八犬伝くらい読んでおいたほうがいいですよ」
信姫は口元に手を当ててくすくすと笑う。
短い付き合いながら信姫についてわかったことがある。このように他人をからかう時の信姫は実に楽しそうだということだ
「……居酒屋の名前かい?」
「おや、未成年飲酒はいけませんよ」
信姫は少し呆れたような顔をした。
「飲まないよ!! たまに親父が連れていってくれるだけだ」
「というか、本気で言ってるんですかそれ? 南方くんは普段、図書室で何をしてるんですか?」
「残念ながら僕は遅読でね。人が二冊読む時間で一冊くらいしか読めないから、図書室にいる時間ほどは本は読めてないんだ。というか、なんで僕がよく図書室にいってることまで知ってるのさ? 話したっけ?」
「八徳というのは中国の古い思想ですよ。儒教における八つの美徳のことを言います」
「強引に話題を戻さないでくれよ?」
「我らは八人の鬼。美徳を嗤い、善を蔑み、秩序に唾棄する夷です」
「……少し、その面の皮の厚さを僕にも分けてくれよ」
仁吉がぎゃあぎゃあと声を荒げて叫んでも、信姫はどこ吹く風で話を続ける。その自由さが、仁吉には少し羨ましく思えた。
「ところで、私の説明聞いてました?」
「一応はね。要するに君たちは、不思議な術や力を持った悪党ということでいいのかい?」
「概ねその認識で構いませんよ。では、私はこれで。南方くんと話すのは楽しいのでいつまでもこうしていたいのですが、今日はこれでお開きにしましょう」
「……帰るならせめて、この拘束を解いてくれよ」
未だ手足を自由に動かせない状態の仁吉は、恨みがましげに信姫を睨む。しかし信姫は悠然と仁吉に背を向けた。
「屋上で立ったまま一夜を明かせとでも言うのかい?」
「ふふ、そのうち自然と解けるようにしてありますので、もう暫く我慢してください」
そう言って信姫は屋上から去っていった。
果たして五分後、信姫の言った通りに仁吉を拘束していた炎の杭は消滅した。
改めて聖火と仁美の無事を確認した仁吉は蔵碓と紀恭に、二人は見つかったと電話をした。
**
泰伯は旧校舎の森の中で、船乗りシンドバッドから不八徳について教えられていた。大体の概要は、信姫が仁吉に話したものと変わらない。
「八徳って、南総里見八犬伝の仁義八行と同じって認識であってるかい?」
「ああ。仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌だ」
「夷というと大和朝廷への反逆者……蝦夷のことでいいのかな?」
「いや、ここでいう夷は中国のそれだ。四夷という言葉を聞いたことは?」
「ああ、古い中国で中原と呼ばれる文化圏の四方にいた周辺民族の蔑称だろう? 匈奴とか林胡とかさ」
「話が早いな。そいつ達の魂が輪廻によって転生した者らが不八徳だ」
「なるほど。ちなみに、なんでそんな奴らが日本に転生して日本で暴れようとするんだい?」
「それは俺にもわからない。ただ、日本――この坂弓の地には奴らが集う何かがある。俺に言えるのはそれくらいだ」
船乗りシンドバッドに説明された話を、泰伯は改めて自分の頭の中で整理してみた。
かつて中国で夷――つまり、蛮族と蔑まれてきたもの達が生まれ変わり、坂弓を中心として悪事を働こうとしている。そして船乗りシンドバッドはその敵、不八徳に対抗すべくこの地にやって来たらしい。
旧校舎のあたりによく出没するのは、この旧校舎には危険な存在が封印されており、それが不八徳の手に渡らないようにするためとのことだった。
「そういえば、あの包帯の彼女はここから何かを持ち出したようだけれど、大丈夫なのかい?」
「ああ、あれは件の封印とは別の物だ。とはいえ、一時的に封印が緩んだせいで吹き出した瘴気のせいで良くない物を呼び集めてしまったようだがな」
「それってさっき僕が戦った蜘蛛の化物とかかい?」
「ああ。他にも数体ほど現れたようだが、死傷者は出ていないから安心しろ」
「君が倒したのかい?」
「ああ。全てではないがな。この地の封印や不八徳に関わりなく、あの手の怪異は今もいる。そして、闇の中でそれらを倒すために戦う者達もいるということだ」
「……聞けば聞くほど、僕の今までの常識なんて世の中の上澄みのさらに上澄みだったんだなと思うよ」
「そうだな。だが大半の人間は生まれてから死ぬまで、その上澄みの常識を世界の全てと信じて一生を終える。その方がよほど幸福だろうし――そういった無辜の者らを守るために俺は戦っている。そして今、天命はお前を選んだ」
「ああ、わかっているよ船乗りシンドバッド。これが運命だというのなら僕は逃げない。君が今言ったことを信条に掲げて戦う限り、僕は君の味方だ。だから、一つ約束してほしいことがある」
そう言って泰伯は船乗りシンドバッドを真っ直ぐ見つめた。その目はフードに隠れて見えないが、そんなことは気にせずに、告げる。
「話せないことがあるなら言わなくてもいい。言いたくないことも、無理に聞かない。だけど――嘘だけはつかないでくれ」
「ああ、わかった」
短く、簡潔な一言。しかし泰伯にはその言葉だけで十分だった。
「――話しすぎたな。今日はこのくらいにしておこう」
「そうだね。他にも気になることはあるけれど、それはまた次の機会にしておこう」
そう言って立ち去ろうとする船乗りシンドバッドを泰伯は黙って見送った。
泰伯に背を向けて、森のほうへ歩き出したかと思うと、その姿は闇に融ける影のように消え去っていた。
「さて、僕も帰ろうかな」