unforgettable bad moon_2
いつものように教室に足を運ぼうとして、ふと仁吉は足を止める。
向かおうとしていた先は二年生の時の教室だった。そこにもう自分の席はない。そもそも、新クラスの発表自体がまだなのだから、今の仁吉には向かう先がない状態である。
そういえば去年の始業式の日にも同じことをしてしまったのを思い出し、軽くため息をついた。
どうするか軽く思案して、先ほど聖火との話にも出した図書室に行くことにした。空いていなければまたその時に考えよう、というくらいの気安さである。
とはいえ、空いているかということについては実のところ、あまり心配はしていない。
「で、ちゃんと開いてるんだよね」
「おや、相変わらず勤勉だねミナカタくん。そう言えば去年の始業式の日もこれくらいの時間に来ていたんだったかな?」
そう言って仁吉を迎えたのは、図書委員長の千里山早紀だ。迎えたといっても、早紀は貸し出しカウンターの中で読書中であり、一瞥して相手が誰かを確認したきりまた本に目線を落としてしまったのだが。
「そう言えばそうだったかな。よく覚えてたね、千里山さん」
「たまたまだよ。それにミナカタ君は常連様だからね」
「なら、そろそろ名前も覚えてくれないかな? 何度も言うけど、僕はミナカタじゃなくて、ミナミカタ、だよ」
「いいじゃないか、ミナカタ。南方熊楠みたいでさ」
「まあ、それも割と言われるんだけどさ。誤読されるのも慣れたよ」
「すまないね。しかしどうにも、つい頭の中で漢字が思い浮かぶと、そう言ってしまうんだ」
「……まあ、悪気がないのはわかるけれど、出来れば覚えて欲しいかな」
「ふむ、善処しよう」
などと会話のやり取りをしながらも、早紀の視線が仁吉を見ることは一度もない。何を読んでいるのかと気になり、表紙を見てみると、そこには『李陵・山月記』と書いてあった。
山月記は二年の時に授業で読んだが、山月記と並んでタイトルになっている『李陵』という話は読んだことがない。もう一冊ないか聞いて読んでみようかなどと考えていると、早紀がページをめくる手を止めて口を開いた。
「ところで、いいのかい? 今頃、君の盟友は慌ただしく走り回っている頃だと思うんだが」
「ん、ああ蔵碓か。あいつは……うん、まあそうだろうね。またぞろ生徒会の役員たちを放っておいて一人であれこれやってるだろうさ。落ち着いた頃に顔を出すよ」
「少しは王様を見習ったほうがいいよ」
「覇城か。あいつはあいつで極端ではあるけど、言いたいことは分かるよ」
「彼はもう少し、リーダー論というのを学んだほうがいいね。次にあったらこれでも読ませてやってくれ」
そう言って早紀が取り出したのは、古びて背表紙からページまでが茶色く日焼けた文庫本だった。その表紙には『孫子』と書かれている。
「孫子の兵法?」
「そ。今では軍略家よりもビジネスマンの頼れる指南書だけどね。年度末の入れ替えの時に、年季のはいって読みにくくなった本を入れ替えることになってね、新版を買うことになった本のうちの一冊さ。明日から宣伝して本好きな生徒たちに引き取ってと思っていたんだが、図書委員長権限でミナカタ君に譲るよ」
「それは、どうも」
名字のことについてはもはや諦め、仁吉は手渡された文庫本をぱらぱらとめくって見る。確かに古くはなっているが、まだ本としては全然読めるし、本の性質を考えると、新版の真っ白い綺麗なものよりもむしろこちらのほうが味わいがあっていいとすら感じる。
(とりあえず僕が先に読ませてもらおうかな。蔵碓に渡すのは……その後でいいか)
結局、八時半頃になって、新クラスの発表で、中庭のあたりが騒がしくなり始めるまで、仁吉は図書室で孫子を読んで過ごした。
**
始業式が終わり、新クラスでの簡単なホームルームが終わって昼になった。
今日はまだ授業もなく、部活や委員会の集まりがある生徒はそちらへ、特に用事のない生徒は早々に帰って行った。
仁吉は保健委員会の会議があったのでそちらに参加したが、新学期最初の会議などそう大して話すことも決めることもない。十五分ほどで終わったので、ついでの挨拶代わりに生徒会室に顔を出した。
校舎西棟三階。
その一番端のほうにある生徒会室の扉を開くと、その中には仁吉の見知った顔がいた。
藍色の羽織に紺色の袴。赤みがかった髪に、黒ぶちの眼鏡をかけた男子生徒。190センチを超える身長と、広い肩幅に鍛えられたことが服の上からでもわかるがっしりとした体つき。威圧感のある見た目の通りに、背筋をまっすぐ伸ばして座っている彼が、坂弓高校の生徒会長、崇禅寺蔵碓である。
「ああ、仁吉か」
ピンと伸ばした背筋はそのままに、扉のほうに振り向いて仁吉を見る。その手元には書類の束が握られており、つい先ほどまで真剣に読んでいたらしい。
「他の役員はどうしたんだい?」
「今日はまだ来ていないな。何か用事でもあったか?」
丁寧で、どこか厳かさのある声。
仁吉と蔵碓はかれこれ十年来の付き合いである。その関係性を表すのに、控え目にいっても友人となることは間違いないほどには親しくしているのだが、蔵碓は仁吉に対していつでもこのような風であった。
「いや、いなくてよかったよ。ただ単にお前の様子を見に来ただけだからな」
「む、私のか?」
「そうだよ。春休みの間、少しは休んでいたかと思えば……。変わらず、無茶なことをしていたようだね」
「問題ない。いたって健康だ」
「問題があるから言ってるんだろこの馬鹿!! 本当にいつか倒れるぞ!?」
仁吉の口調は荒くなる。
というのも、仁吉の特技の一つに、他人の怪我や疲労の状態が見ただけでわかるというものがある。これの精度については仁吉はかなりの自信があり、実際に今まで大きく外したことはない。
そして、そんな仁吉の目から見た蔵碓は慢性的に疲労と怪我を抱えている。とりわけ、生徒会長になってからは悪化していた。それを指摘する度に蔵碓は今のような返しをするので、自然と仁吉も語気が荒くなるのだ。
「気遣ってくれるのは有難い。感謝している。しかし、私の体のことは私が一番わかっているつもりだ」
「わかってないから言ってるんだよ。いいか、お前はいつもな……」
続けて説教をしようとしたその時である。
生徒会室の扉が開いた。
「あの、お取り込み中に申し訳ありません。生徒会長に相談があって来たのですが」
白い着物を着た、濡羽色の長髪が特徴的な女子生徒がそこに立っていた。