先求開展、後至緊湊
六月六日、木曜日の放課後。
理科室の一角で蒼天は一つ上の先輩、伊丹孝直と将棋を打っていた。前にラーメン屋で誘われた通りに将棋部の活動に参加して対局をしていたのである。
将棋素人の蒼天はここまでの四日間で、駒の動かし方くらいしか勉強していない。対して孝直は昨年の県大会で優勝し、全国大会にまで出場したほどの腕前だ。孝直としては、蒼天がしおらしく教えてくれという態度ならば指導対局をしてもいいが、あくまで生意気なら徹底的に負かしてやろうという気持ちでいた。
しかし、いざ打ち始めてみると、最初のうちこそ素人丸出しの定石も何もない雑多な手しか使ってこなかったが、段々とそれらしくなってきたのである。
まだ形成は孝直が有利である。それを自覚しながらも釈然としない薄気味悪さで孝直はわずかに顔をしかめていた。
「ねえ君、将棋初めてって本当?」
「うむ。駒の動かし方しか知らんの。後は、とりあえずおぬしの手を見様見真似でねの」
「それで後手を志願したんですか? 素人に先手で勝っても自慢にもならないから嫌だったんですけどね」
将棋は基本的に先手有利とされている。しかし蒼天は敢えて後手を選び、孝直の手を観察しながら少しずつ自分で考えて打っていたのだ。
ちなみに今、孝直が使っているのは居飛車車矢倉である。攻撃的な定石であり、玉を左端に動かして金、銀と歩で囲む戦術であった。蒼天もその手をほとんど模倣しているので両者の盤面は似ているのだが、その上で孝直には気持ち悪いと感じたのである。
蒼天は矢倉囲いを真似はしたものも、蒼天から見て右隅に王を動かしての振り飛車矢倉と呼ばれる形である。つまり、二人の玉は角に寄った状態で金銀歩に護られつつ対峙しているのだ。
「うむ。しかしこれで布陣はあらかた完了したようじゃし、後は攻めるのみじゃの」
「まあそうなんですけど、たぶん私が勝ちますよ」
「ふふ、いつまでその自信が持つか試してやろうではないか」
蒼天は不敵に笑いながら駒を動かし――十分後、あっさりと負けてしまった。
それも、三手詰みまで追い込まれながら投了せず、王を取られて終わるという実に情けなく諦めの悪い負け方である。
「ぐぬぬ……。おかしい、こんなはずではなかったのじゃが」
「いや妥当ですよ。筋は悪くないですが、素人にあっさり負けたら私としても立つ瀬がありませんからね」
孝直は落ち着いた表情でいる。打ち筋が気持ち悪く、時折やりにくさを感じることはあったが、それでも蒼天はどこまでいっても初心者である。
「基本的にどんなことでも、素人が経験者に一度で勝てるなんてことはまずないんですよ。そういうのがあるのは少年漫画の一話目くらいです」
「……ま、そうじゃの」
蒼天は口では納得したようなことを言っているが顔にはっきりと、負けて悔しいと書いてあった。
「ところで三国さん、何か他のゲームとかやったことあります? チェスとか囲碁とか。将棋が初めてというのは本当でしょうけれど、動作とかには手慣れているような気がしたんですが」
「六博ならさんざんやったの。余の師匠というのが、それはそれは強くてついに一度も勝てなかったがの」
そう言われた孝直は怪訝そうな目をした。六博とは中国の古い盤面遊戯の一種なのだが、その具体的なルールというのははっきりと現代には伝わっていないはずだ。どうやってそんなものをやったのかと聞くと蒼天は少しだけ、しまったという顔をした。
「ああ、その師匠の家にあったそれらしい古い盤と駒を使ったローカルルールでな。師匠は六博と呼んでおったが本当に過去のそれと同じルールかまでは知らぬ」
「はあ、ですがちょっと気になりますね。そのお師匠さんって、今どこにおられるんですか?」
「もう故人じゃ。盤と駒もないので今やるのは無理じゃの」
お
蒼天はさらりと言う。六博をしたのは前世の話であり、その師匠たる人物などもちろん既に死んでいるので何一つ嘘はなかった。
しかしそれを聞かされた孝直は、悪いことを聞いたという顔をして謝った。しかし、老衰じゃし気にするなと、気が咎めないように蒼天は軽い調子で言った。
「ですが、六博もそうですし、貴女の師匠というのは気になりますね」
「ん、まあ頭はべらぼうに良かったぞ。その代わりに性格は悪かったがの。勝ち筋をちらつかせておきながら、それらはすべて用意された隙であり、そこをのこのこと攻めて来た相手を潰す算段をしっかりと立てておるような奴であった」
「“先に開展を求め、後に緊湊に至る”という言葉が似あう打ち筋の人だったのでしょうね」
「なんじゃそれは?」
「私の座右の銘ですよ。元は中国武術の言葉なんですが、簡単に言ってしまえば、最初は大胆に、段々と小さく纏まっていくように、ということです。将棋で言うならば、定石を組んでいる間は悠々と、攻めに出るとなったら一点集中、という感じです」
なるほど、と蒼天は頷く。そう言われると蒼天の知る六博の師匠――前世の臣下であった男は、何を行うにつけてもそのようであったなと感じたのだ。




