賢愚表裏
王とは孤独 民の傀儡、国を活かす装置である
友は居らず 臣を置き捨て 伴侶を抱かず 一人駆ける
己を信じる その道に望みがあるかはわからずとも
臣を信じる その功は臣に 咎は己に帰するとも
兵に死を命じる その痛みから目を背けず その苦しみは素知らぬ顔で
豪烈なるかなその武名 何人も並ぶ者なし
愚劣なるかなその晩節 古に比する者なし
今や君主に非ざる者は 不羈を謳歌し武霊を振う
天才と馬鹿は紙一重、とはよく言われることである。
それは――革新と愚挙は表裏一体と言い換えてもいいだろう。
例えば、常識を覆すような画期的な改革を行った者がいるとしよう。しかしそれは他者に理解され広く人口に膾炙しなければ狂人の奇行と変わらないのである。
例えば、本邦初の紙幣は南北朝時代に後醍醐天皇が発行したとされている。しかし今日では誰もが当たり前に使っているそれは当時では全く受け入れられず、日本国中で本格的に紙幣制度が普及するには明治時代を待たなければならなかった。
つまりそれがいかに画期的であり、有用であり、そこに思惑があろうとも、人びとにどのようにしてそれを受け入れさせるかということが、改革を成す者にとって何よりも重要なのである。
つまり後の世に称賛を受ける改革者とは、単に独創性に優れているだけでは足らず、それを地に足のついた物として世に根付かせるかこそが重要なのだ。
不八徳の一人。かつて王であった男は、
「そういう意味じゃ、俺はまあ暗君だったろうぜ」
と、己のかつての生を嗤う。
当時においても、そして現代においてもその王の評価は分かれる。英邁な賢主とするか、それなりの君主とするか。あるいは、前半生はよかったが老いて晩節を汚したと見るか。
だが少なくとも、その男には悔いも無ければ、己の評価にも興味はない。
自分はかつての生を、迷いながらも全力で駆け抜けたのだと、生まれ変わった今でも信じているのだから――。




