降_2
六月一日、夜。
人気のない廃工場に二人の人物がいる。一人は、つい先ほどまで仁吉たちと戦っていた鬼面の男である。
その横に立つ白い着物を着た女――御影信姫はくすくすと笑っている。
「今回は散々でしたね。始めに忠告してあげたはずですよ? 貴方が相川くんを出し抜くのは無理だと」
顔は笑っている。しかしそれは嘲笑だ。
そう感じ取っていながら鬼面の男は、はんと息を吐き捨てる。
「黙れ、勝敗は兵家の常だ。お前のように軍を率いたことのない奴に偉そうなことを言われる筋合いはないぞ」
声には苛立ちがある。これでも鬼面の男としてはまだ堪えているのだ。
信姫はそんな彼を見下すように柳眉を寄せた。見る者すべてを魅了するような極上の笑みと、玉のような美しい声で語りかける。
「犬ですらもう少し利口だというのに、貴方は前世からまるで懲りていないのですね。やらずともよいことを志願した果てにどうなったのかもう忘れてしまったのですか?」
「……黙れ」
「昭和の文豪の筆によって貴方の恥と醜態は世にさらされてしまったのですから」
「黙れと言っているぞ女!!」
鬼面の男は剣を抜き放ち信姫の首筋に突きつける。しかし信姫の顔は変わらず涼しげであり、怯えるふりさえしなかった。
「俺はお前の臣下ではない。そのことを忘れるな」
「ええ、分かっていますよ。まあ、そもそも私に臣下などいませんが、それはそれとして貴方のような配下がいるなど御免ですね。それを考えれば、貴方はもっと自分の主君の寛容を有難く思わなければいけませんよ?」
信姫の口からは流れるような挑発の言葉が出てくる。それは彼女が他の不八徳に語ったような皮肉と違って悪意があり、そして饒舌だった。
「言われずとも君恩は感じているさ。だからこそ、その恩に報いるために微力を尽くしているとも」
「そうですね。大いに尽力してください。部下の妻を斬殺させておいて、自分の妻子を刑死させた主君に憤慨するような身勝手な人間を使ってくれているのですからね」
その言葉に、鬼面の男の怒りが弾けた。白刃が閃く。しかしその刃が信姫の肌を裂くことはなく、剣はいつの間にか根元のところで折れていた。
そして――信姫は逆に鬼面の男の喉元に刀を突きつけていたのである。
「貴方は私の部下ではありません。ですが私と対等でもありません。私が約束するのは、傍観と不可侵だけで、貴方からそれを破るのであれば――その首の保証はしませんよ?」
浅慮と未熟を突きつけているようなものである。
鬼面の男は小さく唸りをあげて信姫を睨んだ。その仮面の下で顔が屈辱と憤怒に満ちているであろうことは想像に難くない。
そして、そんな彼になお畳み掛けるように信姫は言葉を続ける。それは忠告などではなく、ただただ嫌いだからその傷口に塩を塗り込んでやりたいという悪意があり、信姫はそれを隠そうというつもりもない。
「もう少し利口におなりなさいな。かつての貴方のように」
「……うるさい」
「つまらぬ意地で不要の遠征を部下に強いておきながら、自分だけは降り礼遇されたかつての貴方のようねに」
信姫の語る言葉はその一つ一つがすべて、鬼面の男の逆鱗に触れている。鬼面の男にとっては面罵されているのと同じであった。
鬼面の男が拳を握り、振り上げる。次の瞬間、その腕は肩のところから切り落とされた。
「一つだけ、これは純粋な善意で教えてあげましょう。貴方のかつての生において誰かを恨むとすれば、それは貴方自身の他にいないのです」
信姫はそう、呪いのような言葉を口にして、切られた肩を抑えてうずくまる鬼面の男を背にしてその場を去っていった。