凡軍好高而悪下
白斗山の東側を仁吉と泰伯は走っている。
二人とも傀骸装しているので人間離れした脚力ではあるのだが機動力では仁吉のほうが上であり、仁吉は仕方なく少し足を緩めながら走っていた。
先行するかとも仁吉は考えはした。そのほうが気楽だからだ。しかし敵がうようよといる山中で別行動をするのは流石にまずいと思い、仕方なく並走している。
「……まずいですね」
泰伯が重苦しい声を出す。
「なんだよ?」
「そろそろ太白砦跡なんです」
「それがどうした?」
回りくどい言い方に仁吉は苛立つ。そこで泰伯は仁吉に白斗山の戦いや、かつての白斗城の砦について知っているかと聞いた。
その話は史料館にもあり、仁吉は勇水に解説してもらったことを思い出す。
「ええと、確か門と櫓で入り口を固めて、その奥には切り立った崖がある。その上に砦があるんだったか?」
「はい。今は崖の側道から上に上がれるようになっているんですけど、もしそこを封鎖されていれば崖を登らなければいけなくなります」
それは確かに面倒だと仁吉も思う。
『“凡そ軍は高きを好みて下きを悪む”、だな。敵将にそれなりの知恵があればまず間違いなく崖上を押さえているだろう』
また、仁吉の口調が変わる。泰伯は流石に怪しんで、
「先輩、そんなに『孫子』好きなんですか?」
と聞いた。先ほどに続いて今も仁吉が口にしたのは『孫子』の一節である。歴史にも漢文にも兵法にもそれほど興味がなさそうな仁吉が事あるごとに漢籍を引用するのはらしくないように感じたのだ。
「『孫子』の兵法がどうしたって? まあ、一応読みはしたけどその程度だよ」
「はぁ……」
泰伯はますます怪しむ。つい先ほど、その一節を引いたのと同じ口から出た言葉とは思えなかった。
どういうことなのか怪しんでいるが、仁吉には何も心当たりなどなく、泰伯が急におかしな質問をしてきて、何かを考え込んでいるようにしか見えないので腹が立ってきた。
「それで、敵が崖上に陣取ってたらどうするんだ? いくら傀骸装してるとはいえ、僕らの能力で崖攻めはきついぞ。いっそ迂回するか?」
仁吉は足を止めた。このまま走っていてはもう間もなく岸壁に着いてしまうからだ。この状況で行き当たりばったりはまずいというくらいの危機感はある。
(こういうのを確か……“敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求める”、だったかな?)
その時、仁吉の脳裏には、まるで誰かに耳元で囁かれたように『孫子』の一節が浮かんできた。
要するに事前に策を立てて勝算を確立しない者は、戦いに挑んでから勝ち筋を見つけようとする。そういう愚者をして“敗兵”と呼ぶ、という教えである。
(なんだか、この一節は妙にはっきりと覚えてるな。やたらと心に刺さったからか?)
そう疑問に思いながら、ひとまずそのことは置いておき泰伯とこれからの方針を相談する。
泰伯曰く、崖とは言ってもそれは垂直に切り立ったものではなく、いくつもの巨岩が積み重なって傾斜を作っている険しい岩場であるらしい。なので一応、その気になれば登ることも可能ではあるようだ。
「それならもう、一か八か登ってみるか? あいつらが騎兵なら、逆に向こうも登ってる最中のこっちを攻めるのは難しいだろうし」
「ありかもしれませんね。問題は相川先輩の光弾ですよ。上を取ってるのが相川先輩なら、あれを避けながら崖を登るのはかなり危険だと思います」
「いいや、騎礼はいないよ」
仁吉は少しの迷いもなくそう言い切った。
「あいつは間違いなく先行してるさ。もしかしたら部下の騎兵隊くらいは残してるかもしれないが、本人はいない。さっきの戦闘を見たかぎり、部下は光弾を使えないみたいだし、そっちの心配はいらないだろう」
仁吉がそう言い切るので泰伯はとりあえずそれを信じることにした。
そして、
「というか、とりあえず遠くから様子見にでもいくか?」
という仁吉の提案のもと、二人は音を殺しつつ崖に接近した。そこから崖上を見ると案の定、そこには無数の黒い旗がひらめいている。これ見よがしなのは、高地を押さえたと喧伝するためだろう。
そして断崖にはあの鬼面の男がいた。仁吉は遭遇していないが泰伯から聞かされていてその存在は知っている。
そして、そうなると仁吉には疑問が湧いた。
(騎礼の奴はどこにいったんだ?)
騎礼は間違いなく頂上を目指したはずであり、そうなればこの断崖を通っているはずである。
迂回したという可能性もあるのだが、仁吉にはそうは思えなかった。
そんな違和感を覚えながらも仁吉は泰伯と共に崖上を観察した。




