白斗山
六月一日、正午。
蒼天たちが白斗山に向かったその日。仁吉は朝からふらりと学校に来ていた。その目的は図書室で中島敦の『李陵・山月記』を読むためである。
昨日、高明に色々と中国古代史について講義を受けた。興味深い話はたくさんあったのだが、その中で一番印象に残っていたのが中島敦だったのである。
『山月記』は現国の授業でも行う話でありその内容はもちろん仁吉も知っている。しかしその短編集に収められている他の話については興味を持ったことはなかった。
だが、高明の話を聞いた今となると、その時は軽く流していたのだが段々とその内容への興味が心の中での興味の比重を占めだしていったのである。
なので今日、仁吉は早起きして日課を済ませると制服を着て学校の図書室に行き、午前いっぱいを使って『李陵』を読むことにしたのである。
明治から昭和にかけての文豪の本であるのでその文章は硬く、読みにくさもある。加えて『李陵』は前漢武帝の頃の話なのだが、その時代背景について本文中での説明が十分とは言えない。仁吉の読んでいる新潮社のそれにはそういった読みにくさを補足するための注釈があるにはあるのだが、それは離れた頁にまとまっているため、注釈を参照するには読む手を止めて注釈の頁に飛ばなければならない。
そのことに煩雑さを感じながらも、しかし仁吉は引き込まれるように読み進めていった。そして半日かけて読み切ったのである。
読み切ったタイミングを見計らって図書委員長の千里山早紀が話しかけてきた。
「ミナカタくんにしては渋いチョイスだったけど、どうだった?」
「……いや、もうね。凄かったよ。凡庸な感想かもしれないけどね」
「まあそれは否定しないよ。私はシェイクスピアが好きだが、しかし中島敦の筆には胸が熱くなるのを感じるのも理解出来るよ。特に司馬遷が屈辱をバネに、取りつかれたように史記の編纂に取り掛かるところは堪らないね」
そう語る早紀は心なしか早口だった。
「僕は李陵が蘇武と再会してから暫くするうちにいたたまれなくなるところが……。なんだろうね。読んでて辛かったよ。あの話、後半は李陵と蘇武の対比が主軸になってるよね」
「まあ、君はそうかもしれないね」
仁吉の感想に対して早紀は含みのある言い方をした。しかし仁吉がその理由を聞いても早紀ははぐらかしてちゃんと教えてはくれなかった。
「しかしミナカタくん。もしかして昨日の高明先生の講義に影響されたのかい? 古代中国史の世界に興味が湧いたとか?」
「……まあ、面白そうだというのは分かるよ。ただ、それはそれとして高明先生の講義はなかなか濃かったからね」
「きっと高明先生からすればまだ薄めたカルピスくらいの内容だったと思うよ」
そうなのだろうと仁吉は思う。だが、仁吉にとってはそれが原液に感じられたのだ。
「ま、もっと深いところに行くかは気分次第だね。それじゃあ、今日は帰るよ」
「おや、何か借りていかなくていいのかい?」
早紀の言葉には、今日は大丈夫と返して仁吉は図書室を出る。そして校舎を出ようとしたその時だった。知った顔に呼び止められたのである。
「おう、奇遇だな仁吉」
「なんだ覇城か」
相手は仁吉の幼なじみであり体育委員長の西山天王山覇城だった。その横には体育委員会副委員長の西向日由基もいて、仁吉を見ると軽く会釈した。
「今から白斗山に行くんだがお前もどうだ?」
「……は?」
唐突にそう誘われて、仁吉は思わず間抜けな声を出してしまった。