延陵季子
仁吉が如水と理科室に向かっていたその時。
すでに歴史研究会の講義に参加するためにやってきていた泰伯は歴史研究会の顧問である蘆屋川高明と話していた。
泰伯と高明の他にこの場にいるのは、歴史研究会のメンバーである二年生の雲雀丘紀恭と一年生の門戸厄神杖杜という生徒である。
「部外の聴講者は君だけか。なんとも寂しい催しになってしまったな」
高明は少し残念そうな顔をしていた。
「まだ時間はありますよ。もう少し、誰か来るかもしれません」
杖杜は高明を励ますように言う。その言葉に高明は、そうだなと少し気を持ち直した。
「ところで君、その名字ってもしかしてあのク……左府の兄弟かい?」
泰伯の質問に杖杜は不快感を露骨に表した。
「あのクズの従兄弟ですよ。おまけにあいつ、留年なんてしやがるものですから、一年の門戸厄神はろくでなしだ、なんて噂が既に流れていて迷惑してるんです」
「……そ、それは災難だね」
泰伯は心の底から同情した。
「まあその……何か困ったことがあれば、生徒会に相談に来るといいよ。力になるからさ」
そう助言するのが精いっぱいだった。
杖杜もそれには、ありがとうございますと頭を下げる。それから少し話しているうちに杖杜は紀恭に呼ばれたのでそっちのほうへ向かった。
泰伯は高明のほうへ行き、少し教えてほしいことがある、と聞いた。
そして、
「延陵の季子について聞きたいのですが」
と聞いた。
「延陵の季子というと――呉王寿夢の末子の季札か」
高明はあっさりとそれが誰のことか分かった。
春秋時代の南方の雄、呉の公子の一人である。賢人であり、父や兄から後継にと望まれたが兄を差し置いて即位するわけにはいかないと言って野に下った人物である。
「聞きたい、というが何が気になるのかね?」
「その……。何かで、延陵の季子には弟子がいた、みたいな記述を見たような気がするのですが……それがどこだったか思い出せなくて。先生、何か思い当たることはありませんか?」
泰伯が延陵の季子、季札のことが気になっているのは、前に泰伯の前に現れた、死んだはずの少女――高槻勇水が自身のことを、延陵の季子の不肖の弟子、と呼んだからである。
しかし季札に弟子がいたという話を泰伯は聞いたことがない。
しかし高明ならば何か知っているのではないかと思ったのである。
ただし起きたことをそのまま言うわけにはいかないので、不本意ではあるがこのような言い方をしたのだ。
泰伯の質問に対して高明はうん、と小さく呻った。
「すまないが、私も分からないな。しかし確か諸国訪問の時には従者を連れていたはずだ。君の言っているのはその従者のことではないかね?」
「従者、ですか……」
季札というのは学者肌の人だった。
父兄から王位に就くことを望まれながらも断ったのは、権力というものに興味がなかったからだろう。
それでいて、王の命令で諸国を訪問するように命じられた時には断ることをしなかった。そうして諸国で様々な人物と交流し、己の知識を示すことで名声を高めた人物である。その旅に同行していた従者はただの荷物持ちや召使などではなく、弟子のようなものだったかもしれない。
しかし勇水は同時に、姫仲雍の子孫だとも言った。姫仲雍は呉の二代目の君主であり、その子孫であるということは呉の王族であることを意味している。
(なら、自分の同族を従者兼弟子として同行させていたってことだろうか? 勇水ちゃんの前世はそういう経緯を持った呉の王族……?)
やはり分からなくなってきた。
そして、自分の答えでは釈然としないという顔の泰伯に高明は、
「気になるならば『呉越春秋』を読んでみてはどうかね?」
と助言した。『呉越春秋』は春秋時代について書いた歴史書の一つであり、その記載は南方で起きた呉と越という二大大国の争いに主点を置いている。
「そうですね。ありがとうございます、先生」
「ありきたりなことしか言えなくてすまないな」
そんなことないですよ、と泰伯が言った時である。
理科室の扉が開き、二人の男子生徒が入ってくる。仁吉と如水だった。