天道是非
鬼の騎卒を引き連れて
我が怨讐は塁壁を侵す
自分は何者なのだろう。いいや――何者でありたいのだろうかと、彼は自分自身に問いかける。
彼は“鬼名”を持つ者であり、前世の記憶というものを明確に有している。
しかし彼の出自を考えると、その名が“鬼名”――胡、つまり中華から見た蛮族と見なしてよいかという立場であった。
そして今、自分が胡となった、少なくとも何者かはそう見なしたという事実に彼は実に反応に困っていたのである。
怒りがあった。
しかしその怒りが、自分が前世から抱えていた激情の発露であるのか、それとも自分を胡と見なした何者かに対して、汚名を与えられたと感じているからなのか。それが分からないのである。
間違いなく苛立ちはある。
しかしその感情の矛先をどこに向ければよいのかが分からないのだ。
そんな思考を落ち着けようと男は手近にあった本を手に取る。その中のある一説が目に留まった。
『大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことに変りはない。それは、誰もが一向に怪しもうとしない事柄だ。邪が栄えて正が虐たげられるというありきたりの事実についてである』
『悪は一時栄えても結局はその酬いを受けると人は云う。なるほどそういう例もあるかも知れぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅に終るという一般的な場合の一例なのではないか』
『天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない』
中島敦の短編『弟子』の一節である。そこにはこの世に溢れていながら、しかし平然と受け入れられている理不尽への、天を衝かんばかりの憤慨が刻まれていた。
その文章は彼にとって、槍で胸を深く突き刺されたようにその魂を抉りつけてくるものであった。しかしそれは天というものへの理不尽から沸き起こる憤慨によるものではない。
前世で彼は理不尽な思いをした。未だその怒りは消えず、しかも自分に大いなる理不尽を押し付けた人物は後の世に稀代の名君と評されている。まさに邪が栄えるの典型であった。
しかし彼はそのことに対して心の底から怒ることが出来なかった。それは彼が、自分のことをしいたげられた正であると思えなかったからである。
無論、謂われなき汚名を着せられたと信じている。自分が間違っていたとも思っていない。しかし彼は自分よりも正しい人物を知っており、しかも天がその正しさに報いたかのような結果を得たことも知っていた。
――かつての俺は何かを間違ったのだろうか? だから鬼になってしまったのか。
そう考えながら、しかし彼は、自分の知るその人のように正しく生きることも出来ないと自覚していた。
ならば――自分の心から一切の迷いがなくなるまで、胸をかき乱す怒りに身を任せて狂ってしまえばいい。それが、彼の出した答えであった。
「――天道は非だ」
彼は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。




