漱石枕流
慌てて山道を駆け下りたせいで転げ落ちた信姫を仁吉は後ろから抱きかかえ、一緒になって転げ落ちていった。
そしてようやく止まったところで仁吉は、信姫を抱きしめたままの状態で、
「……大丈夫かい?」
と、一応、信姫を気遣う言葉をかけた。
しかしその声には、呆れたような、理解出来ないような――自分は何をやっているのだろうかという困惑がはっきりと含まれている。
「……あ、ありがとうございます。ええと、その……顔、近くないですか?」
「誰のせいだと思ってるんだよ?」
照れたような顔をする信姫を、仁吉は怒りの眼差しで見つめた。これならばまだ澄ました顔で扇情的なことを言われたほうがいっそ冷静になれただろうと仁吉は思う。
「ま、まあそうですね……。その、すいません」
「……本当にどうしたんだよ今日の君は? らしくないというか、まるで普段とは別人だ」
そう言いながら起き上がると、制服についた土を払って信姫に手を差し出す。信姫はきょとんとした顔で仁吉を見つめていたが、やがて、
「今日の南方君は、紳士的ですね?」
と、間の抜けた声で言った。一切の他意のない、素朴な声である。
「君は紳士的という言葉をどういう意味で使ってるんだよ? というか、普段の僕をどんな風に思ってたんだ!?」
仁吉からすればそう特別なことをしているつもりはなかった。しかし信姫と一緒になって学校中を歩き回っているというこの状況からしておかしいという自覚はあり、そういう意味でなら仁吉もまた、信姫から見れば“らしくない”のかもしれない。
「まあその、ええと……仁吉くんは、いつも苛々しているなと」
「……君の前じゃなければ、僕はそれなりに常識的なほうだと思うよ」
「でも今日は……いえ、今は苛々していますね?」
「今の君を見てると胃がキリキリしてくるんだよ!!」
あまり自覚はないのだが、普段の仁吉が信姫に対して苛立っているというのであればそれは信姫の何事をも煙に巻く態度のせいだと仁吉は思う。
しかし今は、危なっかしい子供の面倒を見ているような心境であった。
そんなやりとりをしている間に、綰と陵が二人を心配して降りてくる。
「なー御影。お前ほんとにどうしたんだよ今日? なんかあった? それとも、何かドジっ子属性とか天然キャラでも目指してわざとやってる?」
挑発的な言葉であるが、綰は普通の質問のつもりで聞いた。綰も、今日の信姫は普段と違いすぎておかしいと思っているようだ。
「え、ええまあ。……ギャップ萌え、というのを狙ってみようかなと思いまして」
信姫は歯切れ悪く言う。自分の失態や言動にこれ以上言及されたくないので話を合わせているというのが丸わかりの態度だった。
「あのさ御影さん。悪いことは言わないからはっきり否定しておきなよ。じゃないともっと面倒なことになるよ?」
「こういうのを漱石枕流って言うんですよね」
仁吉と陵はもはや憐れみの眼差しで信姫を見ている。
信姫は完全に不貞腐れながら立ち上がると、服についた土を払いながら急に青ざめた。
「あ……。そ、そういえばこの服…………」
この服とは、信姫が着物の上から羽織っているインバネスコートである。先ほど盛大に転げ落ちたせいで土まらけだった。
「……ああ、そういえば頼音先生からの借り物だったっけ?」
信姫は真っ青な顔色のまま頷いた。
「……クリーニングすれば、落ちますかね?」
「……まあ、どうにかなるんじゃない?」
信姫の縋るような問いかけに、仁吉は無責任な言葉を返すしかなかった。