unforgettable bad moon
人は皆
喉を潰すような重圧と
唾棄すべき嫌悪を導にして
歩いていかねばならない
赤い月。
夜風に舞う桜。
口内には血の味が広がり、全身を襲う激痛が意識を朦朧とさせる。
眼前には、巨大な未知の怪物の骸と、返り血を浴びて微笑む白い着物を来た女性。
その手に握られた日本刀は陽光のように眩しくて、つい先ほど、怪物を両断したとは思えないほどに綺麗だった。
何もかもが最悪で、悪夢のような光景。
ああ、だけど僕は、きっと死ぬまで、この瞬間を忘れることはないのだろう。
**
午前五時二十五分。
仕掛けたアラームが鳴り始める、ちょうど五分前に目を覚ますのが、十年以上変わらない彼の朝のルーティンとなっていた。
彼の名は南方仁吉。市立坂弓高校に通う高校生だ。学校では保健委員の委員長を務め、今日から三年生となる。
一度目を覚ますとそこから二度寝に興じることもなくベッドから出て、自分の分の朝食と弁当を支度して家を出発し、一時間ほど朝の町をランニングしてから学校にいくのが日課である。
そうしても、まだ時間は朝の七時だ。今日は始業式のため部活の朝練などもなく、学校は閑散としていた。
「あれ、吉兄じゃん」
「ん、聖火か」
仁吉に声を掛けてきたのは、一学年下で風紀委員に所属している少女、花屋敷聖火だ。二人は従兄妹同士であり、子供の頃から交流があるので、聖火は昔からの癖で仁吉のことを兄と呼んでいる。
「早いね聖火。流石に今日は風紀委員の持ち物検査なんかもないだろう?」
「ないわよそんなもん。それはそれとして、色々とやることあるのよ。紀恭も張り切ってるしね。私の朝のうたた寝タイムはその巻き添えで死んだわ」
気だるげでかったるそうな声。加えて、あまりしっかり着こなしているとは言えない、どこか気の緩みが見てとれるブレザー。
(相変わらず、どちらかと言えば風紀指導される側だよね)
と仁吉は思う。
思うだけで口には出さないが。
こんな様でも彼女は歴とした風紀委員で、しかも副委員長なのだから、不思議なものだと仁吉は時折思ってしまう。
まあそもそもからして、坂弓高校は私服校であり服装についてそこまで厳しい規定はない。必然、風紀委員の仕事というのも緩くなりがちなので、聖火がこんな風でも特に咎められていないのだ。
「まあ折角早起きしてまで出てきたんなら頑張りなよ」
「そりゃ、マジでダルけりゃすっぽかしてるわよ。そんで吉兄はなんでこんな朝早くから? 保健委員の仕事?」
「僕はいつもこれくらいの時間には来てるよ」
「吉兄って部活とかやってなかったわよね。……保健委員ってそんなブラックなわけ?」
「別に。ただ、これが習慣になってるだけさ」
「早く来てどうするわけ?」
「特に何も。教室の掃除をしたり、予習とか好きな本を読んだりとか、色々さ。図書室に行ってる時もあるかな」
「うわぁ信じらんない。何それ真面目キャラ作り? せめてそうって言ってよ。リアルにそれが楽しいですとか言われたら困っちゃうんだけど、私。もっと他にこう、人生の楽しみとかないわけ?」
少しだけ、仁吉は顔をしかめる。
確かに仁吉は、友達とどこかに出掛けたりだとか、単純に一緒になって盛り上がったりといったわかりやすい高校生的な遊びをあまりする性質ではない。そんな仁吉を見て、聖火のようなことを聞いてくる人間もたまにはいる。
しかし仁吉からすれば余計なお世話だとしか思わない。
「僕はこれで僕なりに、高校生活を楽しんでるんだよ」
「でもさー、吉兄それなりにモテるのに三年生にもなって図書室と参考書が恋人ってどうなわけ? それとも私が知らないだけで実は裏でラブソースイートしてたりする?」
「残念ながらそんな相手はいないよ。それよりもこんなところで油売ってていいのかい? 紀恭が待ってるんじゃないかい?」
「ヤッバうわそうだった!! んじゃまたね吉兄、次会う時までに彼女くらい作っときなさいよ!!」
そう言い残すと聖火は校舎の方へと全速力で駆けて行った。
その背中を見送りながら、ポツリと呟いた。
「家が隣同士の相手に言う台詞ではない気がするな、それ」