過猶不及
蒼天と詩季が御影邸の奥に行くと、ふと気になって、泰伯は蔵碓に聞いた。
「そういえばさっき三国さんが、フェイロンは怪異じゃない、みたいなことを言っていましたよね?」
その問いには蔵碓も神妙な顔をして頷く。
「それは私も気になっていたのだ。フェイロンもそれを否定しなかった。どうも我らの認識がそもそも間違っていたようだね」
「検非違使の間では有名な存在とのことでしたが、いつ頃から現れてるかとかって分かってるんですか?」
「それがどうにも曖昧でね。戦後の検非違使の記憶には散逸しているものもあってはっきりとしないのだ」
「ああ、まあ……。というか、そのあたりの文献確かめるために来たんでしたね僕たち」
そこで泰伯は当初の目的を思い出す。
そこで途中になっている文献の整理をもう少しするかという話になった。時間は既に夕方の五時である。
まだ日没までまは時間があるが、もう少し作業を続けようかという時になって泰伯はふと気づいた。
学校にスマートフォンを忘れていたのである。
少し遅くなるかもしれないので玲阿に連絡しようとした時にないことに気づいたのである。
残って作業をすると言った蔵碓に悪いとは思ったが、流石に色々と不都合があるので泰伯は学校に取りに戻ることにした。
「ならば今日はそのまま帰るといい。あまり遅くまで付き合わせても申し訳ないからね」
蔵碓が好意でそう言ってくれたので泰伯はのんびりと学校のほうへ歩いて行った。
その道中、泰伯は先ほど――フェイロンと戦うより前のことを考えていた。
(勇水ちゃん……)
死んだはずの彼女が泰伯の目の前に現れたことの理由を考えていたのである。
勇水が“鬼名”を持っていることはおそらく間違いない。
(姫仲雍の末裔で、延陵の季子……つまり、呉の季札の弟子か)
姫仲雍とは春秋時代の南方の雄、呉国の二代目の君主である。何故初代でないかというと、姫仲雍の兄であり呉の始祖である姫太伯には子がなかったからだ。
そして季札とは呉の公族であり、賢人として名高い人物だ。延陵という地に食邑を与えられたので延陵の季子とも呼ばれている。
四人兄弟の末子であったが父や兄からは一番の賢才と思われており、後嗣にと望まれた。しかし兄を差し置いて即位は出来ないと君主の座を固辞し続けた人である。どうしても季札に君位を継がせたい兄たちは季札一人のためだけに王位継承を子へで無く、弟へ継がせることでいずれ季札に順が回るようにと変えたほどである。
しかし一つ上の兄が死んでも季札は王位を継がなかった。
(季札の弟子……弟子、か。季札の子供の話は聞かないけれど、諸侯を巡遊しているからそのときだろうか?)
そう考えて、もう一つ気になることがある。
勇水は今の泰伯と似た男たちを見たことがあると言っていたことだ。
『一人は魚の腸に隠した剣で王を刺し、一人は命令のために腕を斬り、妻子を捨てた』
後者は分からないが、前者は分かる。
それは専諸という男だ。季札の甥に当たる闔閭という呉の君主に――正確には、闔閭が即位する前に仕え、即位に尽力した人物である。
よりはっきりと言ってしまえば暗殺者だ。
それを説明するには、少し季札の話に戻る必要がある。季札の三人の兄は季札に王位を譲るために兄弟相続という方法を取ったが、季札は王位を辞退した。そのため、三男の子――僚が後を継いで呉の君主となったのである。
ところがこれは長男の子――闔閭にとってとても不愉快なことであった。祖父の代から考えれば、自分は嫡孫であるという自負がある。季札に王位を譲るという目的が果たされなかったのであれば嫡孫の自分に戻すのが筋だろうという不満を抱いたのだ。
そして王位を奪還するため、従兄弟である僚を暗殺することを決めた。この時、僚を暗殺したのが専諸である。闔閭は僚を宴会に招き、専諸に大魚の姿焼きを運ばせた。その中に短剣を仕込んでおき、僚の前に置くとその中から短剣を取り出して僚を刺し殺したのである。
ちなみに闔閭は伍子胥――悌誉の前世の主君でもあり、即位した後に伍子胥と共に楚に攻め上りその首都を陥とした人である。
(確か季札は僚の命令で諸侯の間を巡り、帰国した時には闔閭のクーデターが起きていた。しかし闔閭を非難することもなく、その即位を認めた、みたいな流れだったはずだ)
となると勇水の“鬼名”はそのあたりの呉の人だろう、と泰伯は考えた。しかしそこからがさっぱり分からない。単純に知識の問題である。
(あの時代の呉の人って闔閭、伍子胥以外だともう孫武くらいしか思いつかないんだよね……)
そこまで考えて泰伯は足を止める。
これまで勇水の“鬼名”ばかり考えていたが、そんなものは些末なことである。
勇水は自分の“鬼名”など大したものではないと言った。
そして――。
『暫く見ない間に、ずいぶんと歪んでしまったものね』
『私が貴方の何に失望したのか考えておきなさい』
再会した勇水にそう言われたこと。
それこそが真に泰伯の考えなければならないことである。勇水の“鬼名”のことを考えるなど、現実逃避をしているに過ぎないのだ。
「……僕は、何を間違えたんだろうか?」
力ない独白が、誰の耳に届くでもなく夕方の空に消えていった。