有一於此、不如死也
泰伯と蔵碓は、御影家の地下室で古籍の整理をひたすらしていた。無論、かなり古く貴重なものもあるので、手袋をしての作業である。
蔵碓は慣れた手付きで、丁寧に、そして迅速に本をめくりつつそれらを三種類に分類していった。しかし泰伯は一冊を分けるだけでもかなりの時間を要している。
分類は、『御影家由来の本』『崇禅寺家由来の本』『検非違使関連の本』の三つである。
しかし表の書名だけでは分からないことのほうが多く、しかも中身は草書で書かれているものばかりである。時には漢文で書かれているものもあり、分かる漢字やかなの拾い読みをしながらどうにかやっているのが現状である。
(まあ、考えてみればそうだよね。僕、来た意味あったかな?)
と少し落ち込んでいるのに気づいた蔵碓は立ち上がり地下室から出た。そして暫くすると、分厚い本を持って帰ってきて、それを泰伯に渡す。
「これは?」
「草書の辞典だ。御影くんから借りてきた。よければ使いたまえ」
「あ、ありがとうございます。なんかすいません、無理に同行させてもらったのに」
「気にすることはない。それに、こういう作業を薄暗いところで一人で黙々とやっていると私も気が滅入るのでね。付き合ってもらえて助かるよ」
蔵碓は真面目な顔で言う。
顔立ちが大人びていて、笑顔というものをまず見せない蔵碓だが、いつもその言葉には誠実さがある。それを理解している泰伯はありがたい気持ちと、未熟な自分が情けないという気持ちを抱えながらも蔵碓の好意に甘えた。
そして、真剣な顔をして辞典を片手に書籍に向かう。
分からない字があれば当たりをつけて辞典を引き、違えば次の候補を引く。それで候補が思いつかなくなったら飛ばして次の文章に向かう、という単純なことをひたすらに続けた。
凄まじい集中力であり、泰伯は一時間の間、一言も発さずにその作業を行っている。それでもやはり蔵碓のほうが早いが、最初に比べて仕分ける速度は上がっていた。
その時、泰伯は積まれていた本と本の間に挟まっている和紙を見つけた。白紙ではなく、墨で絵が描かれている。
それは少年と少女の後ろ姿のようだった。二人は海原にぽつんとある小島のようなところで手を繋ぎながら、黒い雲と雷で荒れている空を見ている。
「会長、なんですかねこれ?」
和紙をそっと持ち蔵碓に見せる。しかし蔵碓も何か分からないようで首をかしげた。
「……水墨画、だな」
「そうですね。しかし、保管の仕方がかなり雑ですよね?」
「まあ戦時下のことだからな。時間にも人手にも余裕があったわけではないだろうし、とりあえず焼かれてしまわないように、というのが第一だったのはあるのだろう」
何か分からないが、そのまま置いておくわけにはいかない。すでにかなりホコリをかぶっているものなので、ホコリを払って正しく保管する必要がある。
ひとまず御影家の屋敷の中に保管させてもらおうことになり、蔵碓は詩季のところへ行く。
そしてちょうどいいから少し休憩しよう、ということになった。
「じゃあ外の自販機で何か買ってきますよ。会長、何がいいですか?」
「そうだな……。ならば、コーヒーをブラックで頼む」
蔵碓はそう言って財布から五百円玉を取り出した。泰伯はそれを受け取って屋敷の外へ出ようとする。
(しかし本当に広い家だな)
管理や維持などの面で大変なことも多いだろうが、それはそれとして憧れはある。こういう家に住めたら楽しいそうだ、などと漠然と考えていた泰伯は、門の前に来たところで足を止めた。
そこには栗毛色の長髪を風にたなびかせた、小学校高学年くらいの女の子が立っていたのである。そして泰伯は彼女の顔に覚えがある――いや、決して忘れることの出来ない顔だった。
しかし同時に、彼女がその容姿でここにいることは決してあり得ないということも分かっている。
「勇水……ちゃん…………?」
しかし目の前に映る少女の姿は、どう見ても泰伯の知る相手そのものであり、声を震わせながらも無意識にその名を呼んでいた。
六年前の海難事故で命を落とし、亡骸と再会して葬儀にまで参列したはずの初恋の少女――高槻勇水が、当時と何一つ変わらぬ姿で立っているのだ。
いや、容姿だけでなく、緋色のベストとフレアスカートという服装まで、泰伯が最後に見た時の姿そのままである。
(霊、というものだろうか? それとも僕の幻覚? 今朝、あの日の夢を見たからか?)
色々な思いが錯綜する中で勇水はゆっくりと泰伯に歩み寄り、右手で泰伯の頰に触れる。その手のひらはとても暖かかった。
そして勇水は静かに口を開く。
「暫く見ない間に、ずいぶんと歪んでしまったものね。ともすれば、槐に頭をぶつけてさくりと死んでしまいそうだわ」
淡々としていて、真冬の海のように冷ややかな声だった。
不協和音のような その魂を
憐れみを込めて愛しましょう
夏に降る雪に 親しむように
冬に咲く桜を 愛でるように