swordman
仁吉が図書室で史記と格闘しているその時。
茨木泰伯は校舎から少し離れたところにある格技場で剣道部としての練習に勤しんでいた。
その合間、泰伯は時折、部長である御影信姫のほうを見ている。
彼女は部長に選ばれるだけあって、後輩の指導にも自身の練習にも熱心だ。顧問である夙川義華が顔を出していなくても部活として大きな問題が起きないのは彼女の力が大きいだろう。
(いつも通りだな、部長)
彼女がストーカーに狙われているという話を聞いたのが一週間前のこと。その日の夜に、泰伯は彼女を狙っているらしきフェイロンと名乗る未知の存在と対峙した。
そして次の日。
泰伯は、ストーカー問題は解決したので忘れてほしいと信姫が言ってきたと蔵碓から聞かされた。蔵碓としては釈然としなかったようだが、依頼してきた本人が大丈夫と言っていて、今日まで一週間、大きな変化もない以上、部外者である蔵碓や泰伯としてはそれ以上踏み入ることは出来ない。
とはいえ気がかりが晴れたわけではないのだが、突っ込んで聞くのも気が引ける話題だったので、たまに様子をうかがう程度で終わっている。
「はい、では少し休憩にしましょうか」
信姫がそう言って手を叩くと、真っ先にドリンクホルダーのところに駆け寄った男がいた。泰伯は自分の竹刀を壁掛けに置くと、その横にいく。
「大丈夫かい、ガロ?」
「いや、しんどい。もう今日は練習サボればよかった……」
ドリンクホルダーの中身をすべて飲み干すと、彼はそう言って床に堂々と寝転がった。
彼の名は稲野賀路。泰伯の同級生であり、ガロというのは賀路を音読みしたあだ名である。
「そう言いながら一度も無断欠席したことのないガロが、僕は好きだよ」
「んだよタイハク。くそう、余裕たっぷりな顔しやがって、真面目ぶりやがってよ。世の中に練習好きな運動部員なんているわけないだろ」
「え、僕は普通に楽しいけれど。だいたい、うちの高校は別に部活は強制じゃないんだから、好きじゃなければそもそも部活に入らないさ」
「それはそれ、これはこれだって。だいたい、タイはは家が剣道教室なんだろ? なのになんで学校でも剣道やってるわけ?」
「父親は僕に剣道を教えてくれないからね」
その言葉に嘘はない。
泰伯の家には道場があり、父親の副業として「茨木剣道教室」の看板を掲げている。しかし、泰伯がその教室の生徒であったことは一度もない。
泰伯が父から教わっているのは剣術である。
すなわち、剣を使用する古武術であり、実戦を想定した技術、剣道では反則となる技などを多く含む旧時代的な剣による闘法であった。茨木家の長男は代々、この秘伝を相続せよという家訓があるらしく、すでに武士という社会的制度が消えて久しい現代までもその継承は続いているのだ。
「ふーん、そうなんだ。しかし、だからって学校で部活入って剣道やるんだな」
「だから言っただろう、好きなんだって。ガロみたいに、先輩が美人だったからなんて不純な理由じゃないんだよ」
ガロが剣道部に入部した理由は、一年の時に剣道部の部活動紹介で見た信姫に一目ぼれしたから、というものである。そのことを指摘されたガロは腹を立てたようにそっぽを向いた。
「悪かったな、どうせ俺の動機はくだらないですよーだ」
「そうだね。だけど、悪態をつきながらも練習や試合で手は抜かないし、上達のための努力にも余念はないじゃないか。そこはガロの長所だよ。だからもう少しグチを減らしなよ。次の部長候補なんだから」
「やーだーねー。やりたくないし、もし俺がなったりしたら間違いなく剣道部はダメになるぞー。ゆる部になるぞ。そんなもん、タイハクがやれよ」
「部長引継ぎの頃だと、僕はたぶん生徒会選挙の準備をしてる頃だよ。そうじゃなくても、生徒会と部長の兼任なんてできるわけないだろう?」
「まーそりゃそうだろうけどさ。んじゃ広利がやりゃいいんじゃない?」
「広利はダメだよ。素行が悪い。今日もサボりだしね。実力はあるけど、剣道をやる人間として一番大切なものが欠けてるから、僕は嫌いだよ」
「じゃあ誰が……っと、あれ、南千里先輩じゃね?」
ぼやいていたガロは、そこで格技場の入り口を指さした。
そこでは、信姫と、長髪を後ろで束ねた女生徒が会話をしている。ガロが南千里先輩と呼んだ彼女は、信姫と並んでも見劣りすることのない美人だった。
ただし、一言で美人といっても、信姫が山河の清流のような穏やかさと優美さを有しているのに対し、彼女は顔立ちがくっきりとしていて火のような険しさと鋭さを秘めている。