unarmed but claw
俺の世界の裏側に お前は棲んでいる
僕の世界の対岸で 貴方は立っている
天と地のように 決して交わることはなく
空と海のように その色彩を受けて光輝き
鬼を喰らう虎のような眼差しで お前を睨む
森羅万象の中の剣に跪くように 貴方を敬う
悪夢のような――。
いや、悪夢そのものとしか言いようのない始業式の日の夜から一週間が経った。
信姫は南方仁吉のこれからの人生を、あの日が微風と思えるようなものとなると言ったが、そんな仁吉のこの一週間はと言うと――平穏の一言に尽きる。
保険委員長として一年生に委員会の募集をかけるなどの活動をしながら、時折生徒会に顔を出しては蔵碓の仕事を手伝ったりするなどして、気が付けばあっという間に一週間は過ぎていた。
新学期はどの委員会も多忙である。
しかしその繁忙は仁吉の心の助けとなっていた。
始業式の翌日こそ煩悶としたし憂鬱な気分であった。
誰かに――蔵碓にすら、相談することが出来ず、唯一、問い詰められそうな相手である信姫は、話を聞こうとしても逃げられるか、穏やかに笑いながらとぼけるだけである。何もかもが不明瞭すぎて、一時期の仁吉は鬱蒼として、見えない恐怖に吞まれそうになっていた。
しかし、そんな恐怖は、目の前に積まれた仕事をひたすらこなしていくことで段々と薄れていった。
無論、完全になくなったわけではない。ふとした瞬間にあの日の夜のことを思い出して怖気が走ることもある。しかし、昼夜を問わず恐怖が襲ってきていた数日に比べればこれでも回復したと言える。
そんなある日の放課後のことだ。
その日の仁吉は、ちょうど保健委員としてやることもなく、しかしなんとなくまだ帰ろうという気にもならなかったので図書室に向かった。
図書室のカウンターには、図書委員長である千里山早紀が座って本を読んでいる。
放課後ということもあり、人数は少なくとも、図書室に来る生徒は珍しくはない。早紀としても来る生徒全員に声をかけるようなことはしないし、仁吉もわざわざ不要な会話をしようとは、普段ならば思わない。
しかしその日は、看過できないものがあった。
図書室のカウンター前にある一画だ。
ここには小型のブックラックが置いてあり、図書委員が期間限定でおすすめの本を並べるのが常となっている。その企画自体は自由なものであり、季節や流行りものに沿ったものを選ぶこともあれば、企画を担当した委員が自分の趣味嗜好の詰まった本を好き勝手に並べることもある。
そして今回のテーマは『新学期で弾む心に!! 春に読みたい復讐譚ベスト5』である。
「……誰だい、こんな狂った企画を思いついた奴は?」
「私だ」
「君か」
早紀は読書を続けながら悪びれずに言った。
ちなみに、早紀が今読んでいるのは『ハムレット』である。『ハムレット』はラインナップであるらしく、コーナーの横の宣伝ポップ風の厚紙にもやたらカラフルな配色とポップな字体で書いてあった。
なお、それ以外の四作は『巌窟王』『曽我物語』『ニーベルンゲンの歌』『史記列伝・第六』となっている。
「春先から何がしたいんだい、千里山さんは?」
「いいじゃないか、復讐譚。私はこういう話が好きなんだよ。生のままの人間の感情というのかな。激情が溢れて、理性を押し流していく。むき出しの人間の心というのは、どれだけ凄惨さを帯びても、あるところを越えると他人を魅了するんだよ」
「言いたいことはわかるよ」
「つまり人間はね、理屈じゃなくて感情で生きたいんだよ。だけど世の中にはそれを阻む壁が多くて、たいていの人間は挫折してしまう。そして、あらゆる障害を越えて感情のままに復讐を為す物語に憧れを抱くのさ」
「なるほど。それで――そんな話を、春先から全面に押し出していく理由は?」
「無論、私の趣味だとも」
単純明快な答えだった。
確かに内容からすれば過激なものではある。だがこのコーナーはこういった図書委員個人の嗜好を押し出してくるところも含めて特徴なので、一応、図書委員の顧問も許可は出しているのだろうから別にいいかと仁吉は思った。
(そもそも、本当に読んだら影響が悪かったり過激すぎる本なんて学校の図書室に置いてないだろうし……そういえば)
改めてラインナップを眺めているうちに、仁吉は一つ、気になる本を見つけた。
「この『史記列伝・第六』というのは?」
仁吉が手に取ったのは一冊の文庫本である。その背表紙には『史記列伝 一』と書いてあり、複数巻あるシリーズのようだが一冊しかなく、数字もコーナーの説明書きと異なっていた。
「ああ、それは中国の歴史書さ。列伝というのは人物に焦点を当てた章のことを言ってね。列伝の中の第六番目が復讐者の話なんだよ」
「なるほど」
「伍子胥、という男の話さ。興味があるなら読んでみるといいよ。現代にまで残る故事成語の由来になった人物でもあるからね」
そういわれると興味が湧いたので、仁吉は勧められたとおりに読んでみることにした。
早紀の言った通り、伍子胥という人物について書いてあるのは章としては六番目なのだが、本を手に取って途中から読むという行為はなんとなく気が引ける気がしたので、仁吉は律儀に一番最初の章から読み始める。
中国の歴史書というだけあって、元は漢文である。
文庫化されているそれには漢文は載っておらず訳文だけなのだが、中国史、それも紀元前のものになど触れてこなかった仁吉にはわからないことが多い。読み進めてわからない単語が出てくるたびに注釈に飛び、注釈がなければ辞典を取りに行って単語を引くという読み方をしているため、なかなかページは進まなかった。