斯言之玷、不可為也
正しさを外れたあらゆるものを
悪と呼ぶ
ほんの三十分ほど前まで、海面はとても穏やかだった。
その客船――『ティブロン号』にも穏やかな時間が流れていた。乗客たちはのんびりと海を見ながら歓談に耽ったり家族団欒を過ごしたりしていた。
そしてある少年は――。
『もし、君に何かあったら……必ず、僕が助けにいくよ!!』
共に来ていた友人の少女にそんな、気恥ずかしい勇者気取りの宣言をしたりしていた。
少年はまだ十歳で、しかしその少女のことが好きで好きで堪らなかった。しかし真っ向から好きだとも言えず、それでも背伸びをして精一杯の格好をつけてそう言ったのである。
その言葉が――自分を縛る呪いになるなどとは露ほども思わずに。
そして――雲一つなかった空に暗雲が立ち込め、嵐が起きて海原が暴れ出す。船はあっという間に舵を失い、岩礁にぶつかって船艇に穴が空いた。
大きく揺れる船上で少年は気づく。その少女がいないことに。
少年は必死になって船内を走り回った。船員も混乱していて、少年一人が沈みゆく船の中に駆けて行ったことに気付かない。
少年は記憶を辿り、少女が自分の部屋に忘れ物を取りに戻ると言っていたことを思い出す。彼女の部屋は一番下の階だった。
そして、もうすぐそこには海水が迫ってきている非常階段のデッキで彼女を見つけた。少女は刻一刻と迫る海水から逃げることが出来ず、足を震わせながら手摺りにしがみついている。
少年は少女のほうへ駆け寄った。そしてその手を掴み、連れて逃げようとした――その時である。
船体が大きく揺れた。体勢が崩れ、伸ばした手はむなしく空を掴む。
その間に、少女の体は海水に攫われて見えなくなってしまった。少年は飛び込んで助けようとしたが、体が動かなかった。
必ず助けに行くと、そう大見得を切ったのに。
迫る死の恐怖が枷のように全身を縛り付けて指一本動かすことが出来なかったのである。
そうしている間にも海水は上昇してきており、もう後少しで少年をも呑み込もうとしていた。
『逃げるぞ少年!! ああ、お前は何もしなくていい。怖ければ目を瞑っていろ!!』
その時、少年は誰かに抱きかかえられた。俵のように肩に担がれて、僅かに開いている瞳は、海水がみるみるうちに遠のいて行くのが見えた。
死地から遠のいている。その事実に安堵している。
そんな自分が、とても浅ましく思えた。
逃げてはいけない。それを喜んではいけない。
約束したのだ。その相手は、今もまだあの冷たく暗い水の中にいるのだから――自分だけが助かることなどあってはならないのに。
だが体が動かない。喉が恐怖で締め付けられていて声さえも出ない。悔しくて、情けなくて、なのに泣くことさえ出来ない。
ただひたすらに弱くて未熟で無様な自分に対する自責の念だけがこみ上げてくる。
感情がぐちゃぐちゃになり、何が何だか分からなくなって――ようやく少し、感情に整理がついたとき、少年は救命ボートの上で寝ていた。
『大丈夫か少年? 怖かっただろう』
そう声をかけてくれたのは、少年を助けてくれた人だった。黒いスーツの上からカーキ色のトレンチコートを着た男性である。彼は少年の背中を優しく撫でた。
少年は周囲を見回した。どこにも少女の姿はない。
自分だけが助かってしまったのだと気づいて、少年は大声で泣いた。黒スーツの男はその頭を優しく撫でた。
『好きなだけ泣くといい。怖かったし、恐ろしかっただろう。その苦しみは……ここですべて晴らしてしまえ。そうすればそのうちに、生きている喜びも素直に実感出来るだろうさ』
それはその男の優しさだった。
何の事情も知らない彼は、少年が何に泣いているか分かっていない。ただ、心に深く残る恐怖が少年に涙を流させているのだろうとしか思っていない。
本当は少年は――自分だけが生きていることが耐えられなくて泣いているというのに。
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五月七日、火曜日。
ゴールデンウィークが明けて久々の学校というその日。泰伯は普段の起床時間よりも随分と早く目を覚ました。
まだ空は暗い。
それなのに、妙に眼が冴えている。
「……忘れちゃいけないことだけど――夢に見ると、やっぱりきついな」
そう呟いて、泰伯は布団から出た。