羿逐帝大康
学校の裏山に月宮殿が落ちるより少し前。
悌誉は額に汗をかきながら隣町の図書館まで来ていた。
本来は坂弓市の中央図書館に行く予定だったのだが、いざ着いて見ると改装のためGW中は休館となっていた。
仕方なく電車を乗り継いで隣町の図書館までやって来たのだが、その時には時刻はもう三時半を回っていた。
GW中なので閉館時間も十九時までと遅めなのだが、思った以上に時間を無駄に費やしたのは否めない。
その上、帰りが予定よりも遅くなるのに蒼天にそれを連絡することも出来ない。悌誉も蒼天も携帯電話を持っておらず、家に固定電話すら引いていないからだ。
これまでははっきり言って必要に迫られたことなどなかったのだが、流石にそろそろ購入を真剣に考えなければいけない。そんなことを考えながら悌誉は図書館に入った。
まず悌誉が向かったのは神話学のコーナーである。
犾治郎が言った『射日の弓兵』という言葉の意味が羿のことだとは悌誉にも分かった。
しかし悌誉の知識は、羿という英雄が九つの太陽を撃ち落した、という程度だ。なのでまずは羿について調べようと思ったのである。
とりあえず手に取ったのは『小説十八史略』という本である。これは小説、という通り歴史書の概略に著者の私見の混じったものなのだが、悌誉が羿のことを知ったのはこれなのでとりあえずこれから再確認してみようと思ったのである。
読んでみると、前にこれを読んだ時のことを段々と思い出してきた。その中で気になる箇所があった。
「『夏王朝の時代にも、羿というのがいて、帝大康を追放したという記事が『史記』にのっている』※1か……」
この羿は名前は同じだが、太陽を射たという羿とは時代が違う。
夏というのは中国最古の王朝である。紀元前二千年から紀元前千六百年頃の王朝とされていて、禹という人物が開いたとされている。
太陽を射たという羿は、歴史書を事実と認識するならばそれよりも更に前で、同姓同名の別人ということになる。
「『どちらの羿も、弓の名人で、大そう勇猛であったことは共通している』※2」
しかし『小説十八史略』はこの二人の羿について、それ以上の関係性を探るようなことをしていない。
だが、この夏王朝時代の羿であれば“鬼名”を持ちうると思った。帝大康を追放したとあるが、帝大康とは夏王朝の君主の一人である。それを追放するという行為は即ち、中華から見た敵対者だ。
悌誉は次に『史記』を探した。残念ながら原文も書き下し文もない訳だけのものしか置いていなかったが、ひとまずそれで善しとして件の記述を探す。
いちおう、羿の名は出てきた。
『帝大康は狩猟に熱中して民事につとめず、羿(諸侯の一人)に逐われて国都に帰ることができなかった』※3
とだけある。しかしその後、何事もなかったかのように夏王朝は存続しているのだ。
(もう少し詳しく書いてあるものはないのか?)
これだけでは何とも判断しがたい。ただ名前が同じだけという可能性もある。少なくとも『小説十八史略』にあるような両者の共通項さえここにはない。
(詳しいことは他の歴史書に載っているんだろうか? それとも、『史記』の注釈のどれかか?)
『史記』は後に多くの学者によって様々な注釈書が出されている。その中には、『史記』がさらりと流している事項をより深く掘り下げていることもある。しかし所詮、公営の図書館程度では注釈書まで置いていない。こういったものはそもそも日本語訳されていないことのほうが多く、ちゃんとした本の形式で出版されていることが稀だからだ。
「さて、どうしたものかな?」
『史記』の訳本を前に悩み、ふと顔を上げた時、悌誉はある人物を見つけた。
「芦屋川先生」
「ん、なんだ南千里くんか。奇遇だな」
それは坂弓高校の現文古典教師、芦屋川高明だった。
眼鏡をかけていても眉間のシワが際立つ人相の悪い顔をしているが、高明曰く、こういう顔とのことであり、常に不機嫌というわけではないらしい。
「君も改装で弾き出されてこちらに来たクチか? 休日なのに勤勉なことだな」
「ええ。少し調べたいことがあったので」
悌誉が高明を呼び止めたのは単に教師に挨拶をしようということでない。高明は坂弓高校の歴史研究会の顧問をしており、歴史――とりわけ、中国史に詳しいからだ。
案の定、高明は悌誉の手に『史記』があるのを見ると言及してきた。
「なるほど。『史記』を片手に調べ事か。素晴らしいことだ」
「ええ。それでその、先生は中国神話はどのくらい分かりますか?」
「まあ、人並みだな。なんだ、三皇五帝か?」
「まあ、そのあたりですね。弓兵の羿について少し知りたいことがあるのですが」
そう言って悌誉は『小説十八史略』の記述について話をした。そうすると、すぐに答えが帰ってきた。
「夏王朝の羿についてならば、確か『春秋左伝』にその話があったはずだ」
「『左伝』ですか?」
悌誉は不思議そうな顔をした。
『春秋』とはその名の通り、春秋時代についての歴史書であり『左伝』はその注釈書である。神話の羿にも、夏王朝の羿の時代にも合致しない。
「故事の引用の中に夏の羿の話をしているところがある。確か――魯の襄公の頃のどこかだったはずだ」
「……よくそんなことがすぐに出てきますね。頭の中に検索機でもついてるんですか?」
頼りにしたのは本心だが、それはそれとしてこうもすんなりと求めていた回答が返ってきたので悌誉は関心するより先に疑問が湧いてきた。
「いや、ちょうどつい先ほどまで『春秋左伝』を読んでいたからな」
「それはまた、奇遇ですね。漢文の授業で『左伝』でもやるんですか?」
「いや、趣味の読書だ」
その言葉にははあ、と覇気のない返事をしたが、しかし手がかりになったのは確かである。悌誉は『左伝』を探してきて読み始めた。
やはり訳本しかなかったが、高明に言われた通りに探したところでその記述を見つけた。
夏王朝のころの羿は后羿と呼ばれている。夏王朝の政権を一時的に奪取したが奸臣に殺された人物とある。弓の腕前を誇ったとあり、そこは『小説十八史略』の記述と一致するのだが、やはり神話の羿との関係性については何も触れられていない。
やはり初めの方針に戻るかと、悌誉は中国神話について書かれた本を色々と読み漁ることにした。
そしてようやく、気になる文章を見つけたのである。
「『羿には悪神を退治した話もあり――夷系部族の神として、独立した神話の主人公であるらしく思われる』※4?」
つまりこの本の説によると、夏王朝を一時的に倒した“后羿”とは夷の一つであり、羿とは“后羿”の部族に伝わる神話の登場人物であるとのことだ。それが中華の範囲が広がり、神話が制作、統合されていく過程で『中国神話』という括りの中の英雄の一人と位置付けられたのではないかと、悌誉の手にした本の説を概略するとそのようになる。
(しかしそうなると、あいつは何なんだ? 夏王朝を倒した后羿か? それとも、それら部族の侵攻対象であったという羿か?)
考えるほどにわからなくなり、悌誉は他の本を探し、片端から読み漁った。
※1 講談社文庫、陳舜臣『小説十八史略(一)』p16
※2 同上p17
※3 平凡社、著・司馬遷 訳・野口定男、近藤光男、頼惟勤、吉田光邦『史記 上』p25
なお『史記』原文に「羿」の名はなく、引用はおそらく訳者の補足だろうと思われます
※4 中公文庫、白川静『中国の神話』p192-193 本編中の「――」の部分は中略