the drunker and ogre_2
琥珀の背後に立つ義華の顔は慈愛に満ちた聖女のように穏やかだが、琥珀に向いた眼差しは冷酷な首切り役人のようである。
「引き締める時は引き締める。遊ぶ時は遊ぶ。人生は弛めてばかりではいけないが締め付けすぎてもまたよくない。そういうことも教えてやらないと、ストレスだらけのこんな世の中じゃ、人間なんてすぐに壊れてしまうぞ?」
「よく回る舌ですこと。貴女の呑んでいるそれは、さぞかし上等な油が入っているようですね?」
「酒を油とは、なるほどこれは言い得て妙だな。薬に例えるのは酒飲みの常だが、潤滑油に例える発想はなかったぞ」
義華の表情は、笑顔のはずなのに周囲にいる蒼天たちにはとても恐ろしく感じられた。
そしてその矛先を唯一向けられている、当の琥珀だけが平然としている。
「まあせっかく来たんだ、義華も一杯やっていけ」
琥珀は平然と、空のコップにピッチャーでビールを注ぎ義華に差し出す。
「のう忠江、さっきは琥珀のやつ、夙川先生の名前出したらひるんどったよな?」
「ダメだよヨッチ、酔っ払いの行動に一貫性なんて求めたらさ」
蒼天と忠江は小声で囁きながらことの成り行きを見守っていた。
琥珀の肩を持とうというつもりは微塵もない。ただただ、とばっちりがこちらに来ないことを祈るばかりである。
「飲みませんよ。それと――私のことは他人行儀に夙川先生と呼んでくださいと、常々言っていますよね? その程度の飲酒で分別がなくなるくらいならば肝臓を切除することをお勧めしますよ」
季節は春で、今日は天気もよい。のどかな気温の中にいるはずなのに、蒼天たちには極寒の北国にいるような心地であった。
「ねえ、夙川先生ってこんな怖かったっけ? いや、不良相手に怖いのは知ってんだけどさ、なんかそういうのとまた違くない?」
「まあ琥珀も不良と言えば不良じゃが……それより今、この程度の飲酒って言ったの? 何回かコップ片しとるとしても、今あるだけでぱっと見全然この程度ではないんじゃが?」
蒼天はそちらが少し気になったが、しかし恐ろしくて聞けはしない。
そもそも、この会話に割って入ろうという気が起きない。蝮の巣をつつくほうがまだいくらか気楽だとさえ思っている。
「もちろん、それは覚えているよ。だけどそれは学校での話だろう? 私たちは今この時間に誰からも金をもらってないんだ。別にそんな時にまで先生をすることもないさ。今はただ日本国民として順法精神だけ持っていればいい。そして日本は二十歳以上の飲酒を認めているんだ」
「おや、世迷い事を言う割には随分と血色がいいですね」
「ああ、いい油を使ってるんでね。だからお前もどうだ義華? 肌つやが良くなりすぎて困ることはないだろう?」
「廃油は一人で啜ってください。私の口には合いません」
「そういう言い方をすることはないだろう? 酒に罪はないぞ?」
「ええ。ですがそれを手にしている人間の手が罪にまみれているではないですか?」
琥珀の言葉がすらすらと流れ出てくるたびに義華の毒舌もキレを増していく。
それでいて義華は、表情だけは優しげなのでいよいよ蒼天と忠江は精神的にきつくなってきた。
そして琥珀は、コップを義華のほうに向けながらもそんな蒼天たちの様子を敏感に察した。
「まあ、色々と言いたいのはわかるがそうキツい物言いをしすぎるなよ。蒼天と忠江がすっかり萎縮してるぞ?」
そう言われて義華は二人のほうを見た。そして、少し申し訳なさそうな顔をする。
「ああ、申し訳ありません。三国さんに逆瀬川さん」
「いや、それは……」
「別に、余らはいいのじゃが……その、じゃの」
蒼天は萎縮しているが、しかし言いたいことがあったので意を決して義華の目を見る。
「その、琥珀は確かに……破天荒でずぼらじゃがの。余らにとってはいい先生じゃ……です。少なくとも、琥珀のクラスには、琥珀のことを嫌いな生徒はおらん、ので……まあ、今日くらいは大目に見てあげてもらえんかの?」
震えた声でそう言うと義華は――今は、しっかりと穏やかな目をして蒼天を見た。
そしてそのまま琥珀のほうを見つめる。その目は、厳しくはあるが冷淡ではない。
「わかりました。貴女の可愛い生徒さんに免じて、今日はこのくらいで勘弁してあげましょう。ただし、責任を持ってこの子たちを送り届けてくださいね。万に一つでも何かあればそれは貴女の咎ですからね」
「わかってるよ。今の私は教師じゃないが、それでも大人だ」
そう言った時の琥珀は、しっかりとビールのコップを置いてしっかりとした声であった。
義華は最後に蒼天のほうを見て微笑むとそのまま帰っていった。
琥珀はその背を見送ると蒼天のほうを見た。
「ありがとう、蒼天」
優しげな顔で言われて蒼天は少し照れくさくなった。
「……まあ、琥珀には一飯の恩があるしの」
蒼天は誤魔化すようにそっぽを向く。琥珀はその横顔を眺めながら――ビールを口にやった。
「……琥珀ちゃんまだ飲むの?」
忠江は呆れたような顔をする。
「今ある分で最後にするよ。酒を残したり捨てるのは私の信条に反する」
「まだ1リットル以上残っとらんか?」
「朝飯前だよ」
「……そういや琥珀ちゃん、何か食べた?」
忠江が不思議そうに聞く。少なくとも蒼天たちは琥珀が何かをつまんでいるのを見ていない。
「ビール」
琥珀は真顔で言う。
「……なんか、言うような気はしたがの」
「……ホントに言われると、もう、そっか、としかならないよね」
「酒は飯、酒は栄養、酒は水だよ」
そう言いながらくいくいと、そして着実にビールの残りを減らしていく琥珀を見て、蒼天と忠江はもう何かを言おうという気も起きなかった。
「しかし、夙川先生は存外すんなりと引き下がってくれたの」
「まあ、あいつは風紀委員の顧問なんかをやっているし真面目ではあるんだが、大人に上から知った気になったようなことを言われるのが嫌な気持ちはわかってるよ」
「……まあ、それはなんとなくわかるがの」
と蒼天は言ったが、琥珀はこの話をそれ以上するつもりはないようだった。
蒼天と忠江は仕方なく、疲れ果てた悌誉たちを介抱しながら琥珀が飲み終えるのを待つことにした。