善戦者、致人而不致於人
放課後、仁吉はなんとなく教室に残って本を読んでいた。
読んでいるのは前に早紀からもらった『孫子』だ。この『孫子』は丁寧なことに、白文、書き下し文、現代語訳に加えて注釈までついているので素人の仁吉が読んでもかなりわかりやすい。
まだ始めのほうしか読んでいないが、そのあたりまでの仁吉の感想としては、言われてみればもっともで当然のことが書いてある、という印象である。
決して貶しているわけではない。『孫子』は一貫して、策を入念に立てること、そのために情報を調べ精査すること。そして勝つための条件を整え、勝てる勝負だけをして危険を冒さないといったことを説いている。
(ああ、そういえばこれは羽恭先生も言ってたな。「彼を知り己を知れば百戦して危うからず」。これも『孫子』だったのか)
『孫子』に書いてあることはわかりやすく道理に適っていて、しかしその通りに実行するのがとても難しいことでもある。こと戦いの中で用いるとなると、冷静な時であれば可能なことでも頭に血が上ったり追い詰められていたり、逆に優勢で慢心したりしていると忘れがちなことなのだ。
(これは理屈や言葉を覚えるというよりも、繰り返し読み込むことでその思想を頭に染み込ませることで初めて身につく類のものなんだろうな)
そんな風に考えながら、とりあえず今日は帰るかと思い教室を出た。
そして玄関のところで聖火と会った。偶然という感じはせず、聖火はずっとそこに立っている。そして仁吉の顔を見るなり近づいてきたのでどうも待たれていたようだ。
「どうしたんだい聖火? 何か僕に用でもあるのかい?」
「あー、その。えっとさ吉兄、明日ってヒマ?」
聖火は口をもごもごとさせながら歯切れの悪い口調でそう聞いた。
「別に予定は何もないけれど?」
「じゃっ、じゃあさ――デートしてくれない!?」
「……へ?」
あまりに予想外の内容だったため、仁吉は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「その、大丈夫よ。すごくかわいい子だから!!」
「え? ちょっと待ってくれ聖火? 落ち着いて説明してくれ」
「え? あ、そっか。この言い方だとなんか私が吉兄をデートに誘ってるみたいじゃない!?」
「うんそうだね」
真顔で返す仁吉に、聖火は違う違うと手を横に振った。
「私の友達で吉兄のことが気になるって子がいてさ。紹介してくれないかって頼まれたのよ」
「それは……。なんとも、奇特な子もいたものだね」
「まったく同感ね。だけどゲーム貸してもらうためだから仕方ないのよ」
さらりと聖火の本音が漏れた。
まあそんなことではないか、という気もしていたのだが。
「というわけでデートしてきて。かわいい子と一日遊べるんだから吉兄にとっても別に悪いことなんてないと思うけれど? どうせ彼女なんていないんでしょう?」
散々な言われ様ではあるが事実その通りなので返す言葉がない。
「そうは言われても、僕はこれでけっこう人見知りするほうでね。女の子と遊びたいみたいな気持ちも――まあ、人並みにはあるかな、くらいだし」
その言葉に聖火は眉をひそめた。そして目を細めて仁吉をにらむ。
「……ねえ、まさか吉兄、本当に茨木の奴とデキてたりする?」
「――は?」
仁吉は思わず、相手が聖火だということさえ忘れた敵意に満ちた声を出してしまった。
「あぁ、ごめん。それでえっと、なんだい? 一年生の茨木さんなら、ほとんど面識がないよ」
突き放すような言い方である。そして言ったことは事実だ。どうも聖火の口ぶりではそういう噂があるらしい。かといって仁吉にとって一年生の茨木さん――玲阿とは本当に接点などないのだ。
それでも仁吉は思う。そういう勘違いや噂であってくれと。
しかし聖火は無慈悲に首を横に振る。
「そっちじゃないわよ。副会長の茨木泰伯のほう。吉兄が教室まで呼びに来て、アイツがにこにこ顔でついてったって二年の中で噂になってるの」
これについては何の考えもなしに教室を訪ねた仁吉にも非はあるのだが、仁吉は自分を棚に上げて心の中で泰伯を恨んだ。
「それで……どうなの?」
聖火は疑いの眼差しで仁吉を見ている。
仁吉は軽く舌打ちしてから、
「ああうん、聖火の友達の子とデートさせてもらおうかな。僕は普通に女の子が好きだからね」
と少し早口で言った。
気が動転しての言葉でそのまま聞けばあまりいい内容ではないが、しかし仁吉にとっては泰伯と噂されることを思えばそれ以外にどんな悪評が立ったとしてもいくらかマシに思えたのである。
「……あー、そうね。わかったわ」
聖火は仁吉のあまりの変わり様を見て泰伯の話題を出したことを少し悪く思った。
「ま、引き受けてくれるならいいわ。じゃあ明日、朝九時に『サンタテレサ』の窓側の席に来てね。その子、目印に髪に赤いリボン巻いて待ってるから」
「……名前とかは?」
「そーいうの、会った時に名乗りたいんだって。ってことでよろしく」
そういうと聖火は正門のほうへと歩いて行った。
残された仁吉は軽く舌打ちしてからぽつりと、
「……もう、なんでもいいや」
と投げやりに言った。




