吾其被髪左衽矣
仁吉の説明を一通り聞き終えて、泰伯はため息をついた。
「……あの人、生徒会やりながらそんなことまでしてたんですか?」
あの人とはもちろん蔵碓のことである。
それは仁吉の所感と同じものだった。
「お前からも少しくらい言ってやってくれよ。あいつ、たぶん僕よりもお前の言うことのほうがまだ聞くだろうからな」
「そうですか?」
「あいつは対等と思ってる相手には頑固だが後輩には弱いからな。いや、強く出れないってほうが正しいのかもだが」
「そんな風には見えませんけどね」
「そりゃ、あいつ相手に強く出れる年下なんてのが貴重だからだよ。体格があれで顔があれだからな。大抵ビビるだろ?」
さらりと言う仁吉を見て泰伯は苦笑いした。それでいて否定しないのは泰伯も思っているからだ。
「で、僕の知ってる話はしたんだからそっちのことも話せよ。ハッコウケンがどうたらと言ってただろう? なんだよそれ?」
「あー、そうですね。僕もよくわからないんですが、どうやら不八徳って敵がいるらしく、それの対になる存在らしいですね」
仁吉は不八徳のことは話していない。なので不八徳については知らないという体で話を聞く。
それでは、と前置きして泰伯はまず不八徳のことから話し始めた。
「とりあえず八徳からですかね。先輩、仁義八行ってわかりますか? 八犬伝に出てくるあれです」
「まあ一応」
「あれを否定する者。つまり、不道徳な者たちの集まりということらしいです。そして不八徳と呼ばれる者はみんな、中国の夷の魂を持っているとも」
「えびすって、モンゴル系の騎馬民族ってイメージなんだが合ってるか?」
この認識は信姫の話を聞いて仁吉が調べたことである。といっても、八徳は中国の思想でそれを否定する夷、という内容から調べただけなのでそう詳しいことはわからなかったのだが。
「まあ一般的にはそれで大丈夫ですよ」
「一般人はえびすなんて単語使わないだろ普通。ビールのメーカーしか連想出来ないんじゃないか?」
「……先輩。未成年飲酒はやめておいたほうがいいですよ?」
泰伯は遠慮がちに、しかし仁吉を案じるように言った。
「飲むかよ。親が酒飲みだと自然とこうなるんだ」
「……そういうものですか?」
「ああ。だから続きを話せよ」
「そうですね。ええと、それで大体は先輩の言った通りなんですが、実際の夷と呼ばれる民族はもっと多いんですよ。もちろん時代にもよるんですが、紀元前千年くらいならば今の中国の四分の三くらいは夷ですね」
「……多くないか?」
「日本の大和朝廷と同じですよ。あちこちの国に戦争を仕掛けて領土を拡大していって、それを正当化するために蛮族として差別してるんです。夷という言葉がわかりづらいなら、中華文化圏外と言ったほうがいいかもしれませんね」
「……どの辺がわかりやすいんだ、その言葉?」
当然ながらこのあたりの知識は世界史の教科書では一、二行ほどで終わるようなものである。聞き慣れない単語の多さに仁吉は頭を抱えた。
(こいつの説明能力は蔵碓と似たり寄ったりだな)
仁吉は昨日、蔵碓からされた検非違使についての説明を思い出していた。そして、龍煇丸くらいざっくりと砕いて説明してくれればいいのにと思ってしまい、無性に悔しい気持ちになった。
「……説明、続けて大丈夫ですか?」
泰伯は仁吉の顔を窺った。その純粋に心配している顔が癪だったので仁吉は軽くため息をついて、
「……ああ」
と頷く。
「中国には古くから中華思想というものがありましてね。八徳というのもこの思想の中で生まれたものです。礼節や儀式を重んじ、目上を敬うということですね。それ自体はとてもいいことなんですが、この思想の問題は、その思想に当てはまらない習俗を持つ民族に対してとても差別的なんですよ」
「ああ、文明開化の時に日本がヨーロッパから散々やられたやつか。自分たちが最先端でそれ以外の文化は遅れてるから俺たちに倣えって。国際基準とか言って自分たちの尺度を押し付けがましくしてくるのの中国版ってところかな?」
「そうですね。というか、日本は昔の中国にもそういうことされてましたよ。中華思想から見れば日本も夷ですからね」
それは啓蒙と言えば聞こえはよいが、時に文化侵略となりうる。時に武力を伴い、自分たちの文化、思想、宗教を絶対視してそれ以外の価値観を根こそぎ否定するのだ。
こうして詳しく説明されると信姫が不八徳を、美徳を嗤い、善を蔑み、秩序に唾棄すると言っていたのも頷けた。
信姫の言う美徳や善というのは、中華思想的なそれということだろう。かつて中華思想によって排斥された者たちの成れの果てが不八徳なのだと思うと、少しだけ仁吉は哀れに思えた。
(まあ、だからと言ってなんで現代日本で暴れるんだよとは思うけど)
現状、そのあたりのことを説明してくれそうな人物は信姫しか心当たりがなく、そして信姫は絶対に教えてはくれないだろうと言う確信もまた仁吉にはあった。