退三舎
狙われたのは悌誉の左肩のあたりだった。
腕の一本は確実に落とされるだろうと、悌誉はそう考えていた。しかしその読みは外れることとなる。
痛みがこない。
そして泰伯は構えを解いていた。
悌誉が何かをしたわけではない。そして、そのまま振り下ろしていれば間違いなく悌誉に傷を与えられるはずの一撃だった。
しかし泰伯はそこまで追い詰めて起きながら自分の意思で攻撃を止めたのである。
「……なんのつもりだ?」
悌誉は怪訝そうな顔をして泰伯を睨む。
しかし泰伯は晴れやかな顔をしていた。
「前に言った通りです。次に戦うことになったなら三舎退くと。それとも、これでは三舎に足りませんでしたか?」
爽やかな声である。そして言葉に誠意が込められている。
その誠実さが、悌誉の怒りに拍車をかけていた。
「あのー蒼天さん。さっき言ってた『サンシャ退く』ってなんスか?」
「うむ、中華の故事での。舎とは軍隊が一日に進む距離のことで、つまりは軍の三日分の進軍距離だけ後方へ下がるということじゃ」
「は、はぁ?」
「昔、ある貴人が亡命して他国で世話になっての。それで、国に帰ったらお礼に何をしてくれるかと聞かれて答えたのが『もし貴方の国と戦争になったら三舎退きましょう』というものだったのじゃ」
「……戦争はする前提なんスね」
「まあその貴人も微妙な立場であったしの。老齢で帰れるかもわからない、帰れたとしても偉くなれるかもわからないような不安定な状態で約束出来ることなどそうはあるまい」
「んで、その約束ってどうなったんスか?」
「まあ後日、本当に貴人は国に帰って君主となり、世話になった国と戦争になった。そして――圧倒的優位でありながらその約束を履行したのじゃ」
「物知りッスね蒼天さん」
桧楯は蒼天の博識に舌を巻いているが、それを語る蒼天の顔はなんとも複雑そうであることに桧楯は気づかない。
桧楯は素直に感心しているのだが蒼天は、無論そのことは感じ取ってはいるのだが、まるで苦々しい思い出を語るような浮かない表情だった。
「で、それがあのヤスタケさんの行動とどう繋がるんスか?」
「……うむ。このことから転じて相手に一目置くとか譲歩するということを差して『三舎を避ける』という言葉が出来た。じゃからまぁ……こちらの優位を一回捨てることで誠意を示したということなのじゃろう」
相変わらず蒼天の顔は浮かないままだ。
しかしこちらは明確に、泰伯に対しての呆れである。
「……私たち、巻き添え感すごいッスね」
「……仕方ないの。人を使えば苦を使う、じゃ」
桧楯と蒼天は二人揃ってため息をついた。
しかし当の泰伯はそんなことなど気づいてすらいない。
「なあ、蒼天。お前は私を止めに来たと言ったよな?」
今は少し声を張れば届く距離にいるので、悌誉は蒼天にそう声をかけた。
その気になれば悌誉は蒼天を攻撃出来るのだが、この会話はそれよりも優先すべきらしい。
「うむ」
蒼天は先ほど吐いたため息などもう忘れて堂々と胸を張っている。
「人選間違えてるぞ。よくこんなろくでなしを引き連れて上手くいくと思ったな?」
その言葉は、この時だけは今の互いの立場を忘れた姉としての純粋な感想である。
「ま、これでもちゃんと勝算はあってのことじゃ。別に悌誉姉に不利なことはないゆえよいではないか。古の大国、楚の王の気分を味わえたと思えば悪くはなかろう?」
そしてまた、戦闘前の時のように煽るように言う。
怒らせるのが目的のように。
そして――どこに彼女の逆鱗があるのかを探るように。
そして今まさに蒼天は悌誉の逆鱗に触れた。
「ふざ、けるな。たとえ、偶然だろうと……二度と私の前でそんなことを口にするな!!」
その反応を蒼天は、煽るような笑みはそのままにとても冷静な目で見つめている。
(ふむ、やはり楚に恨み持つ者か。“破荊”と聞いた時に考えはしたが……)
楚は紀元前、春秋時代から戦国時代にかけて中国の南方に存在した国である。楚という漢字は『いばら』を意味し、歴史書には『荊』と記されることもある。
悌誉は――悌誉の前世は楚に恨みを持つ者。
それが蒼天の見解だった。
「のうヤスタケどの。おぬし、三舎を避けるなんて言葉を知っておるくらいじゃから『春秋』や『史記』は読んでおろう?」
蒼天は通信札に向かって小声で聞いた。
『ええ、まあ』
「楚に恨みを持つ人物というと誰が思い当たる?」
『それだけならけっこういるけれどね。あの国って歴史が長くて強国だから色々と恨みは買ってるし』
「……そうじゃの」
『ですが、そこに鞭なると――あの復讐者では?』
蒼天は目を瞑り、思わず空を仰いだ。
悌誉の心を具現化したというこの場所の空は今にも降りだしそうな曇天をしている。
「天の差配は、なんとも皮肉なものじゃの」
その呟きは泰伯にも聞こえたが、その真意を問いただすことはしなかった。