4.4.4.西方将軍
彼女はぼそぼそと呟き続ける。
ソア「愚かな女よ。このように死んでおるではないか。
何が神兵は不死身じゃ。結局死んでおるではないか。
何が、生き延びよ、か。己は死んでおるではないか。
我を生き延びさせようとして、自ら命を差し出しおった。
神人は精神によって形を成している。精神こそが神人の命であり魂であり体であり、その存在の全てなのじゃ。人格も、記憶も、人としての存在も、総てがそれに宿っておる。こやつ、武芸も、記憶も、人間性も、自分の総てを托して死んだ。抜け殻となって死におった。
民を守るのが神兵の務めなどと言いおって。我が無事に逃げられるようにと総てを渡して死におった。兵たる者は民を優先するのが務めであるのか。自分よりも。
ただ一本の民草に過ぎぬ我などよりも、自分を救うべきだっただろうに。
こやつは我を、優しいなどと言いおった。優しい顔をしているなどと。
何を馬鹿な。優しいのはこいつじゃ。我に己を見おってからに。何が、生き残るべき、か。生き残るべきはこいつじゃろうに。
こいつ、こいつは他人のために自分を犠牲に出来る、そんな女じゃ。馬鹿者じゃ。我をここから逃がそうとして、それで自分が死んだら何でもないであろうが。のう」
沈黙の帳が彼女らの周りを取り囲んでいた。アライソは目の前の女達に近付くことが出来なかった。
ソアラと名乗っていた女の体が大きく震え、腕が高くまで振り上げられ、固く握られた拳が強く地面を打った。不意に彼女は面を上げて、立ち上がり、大音声で言い放った。
ソア「兵らよ! 西方将軍鹿原が麾下の貴様らよ! 貴様らは神兵たるものの務めを果たした! 貴様らは我を生かしたのだ! 誇りに思うぞ!」
声は海浜の隅々にまで響き渡った。打ち震えるような風が湧き、地表に漂っていた白銀の靄を天へと吹き流した。
荒れ果てた海岸にはもう、倒木や砕石が抉られた大地に散乱しているだけで、神兵達の屍はどこかへ散り失せていた。顔の潰れた女の遺体ももはや消え、堂々とした立ち姿を見せる「ソアラ」の体を白煙が撫で、そして霧散して行った。
威風を払う彼女の背中にアライソは声を掛けようとした。だが一体何と呼べば良いのだろう。
躊躇う彼の様子を察したか、彼女は振り返って目で問うた。しかしアライソは自身でも何を言うべきかが分からなかった。おずおずとして、ようやく口から言葉が流れた。
アラ「貴女は、一体、何者なのですか」
彼女はふんと鼻を鳴らした。
ソア「何を今更。何度も言っておるじゃろうが。我は西方守護大将、鎮西将軍、鹿原である。先代より意志も武芸も命も名前も継ぎ賜った、西方将軍ソアラである!
アライソ、貴様、呆けたか?」
とぼけた台詞を口にする彼女であったがその姿には、アライソの目には、東方で出会い別れたトヨハタ将軍と同じく重厚な威徳と堅固な意志とを内に秘めた風格が漂っているように見えた。彼女の体は夕陽に映えて美しかった。
これまでのどこか調子の外れた様子はなく、落ち着き払った佇まいには自分の地位を自覚した者の威厳があった。
ソア「ずっと我の後ろを付いて来ていたと思っていたあの女とは、先代であったのだな。そして彼女は我の後ろにいたのではない、我の内に居たのであった。今にしてようやく先代様と一つになれた気がするわ。いや、先代、ではない。彼女と我は一つなのだから」
厳かさすら感じられる静けさの底にアライソ達は沈んでいた。紅い天空とそれを映す海面とを背景として威光を放っているのはソアラだけだった。
その彼女の唇が動いた。
ソア「貴様、アライソ、貴様はこの西岸へ、南方の危難を伝えるために来たのだったな。さて、どうする、これからは」
彼ははっとして我を取り戻して問いに応えた。
アラ「私は、ここがこうなったと知った以上、他の地域にも知らせようと思います。東方、南方には行きました。ですから北へ。残る北方へこれらのことを伝えましょう」
ソアラは深く頷いた。
ソア「うむ。それがいいじゃろう」西の赤い水平線を眺めやり、「我も同行したいところだが、いつまた奴が来るやも知れん、ここを離れるわけにはいくまいて。アライソ、貴様、一人で行け。いや、頼む」
アラ「はい」
ソア「他方の話を聞くに付け、おそらくは北方にも別の龍が襲い掛かりに来るのではないか。アライソよ、貴様に預けた三保羽衣、もう少し貴様が持っておれ。龍奴らとの戦いできっと役に立つだろう。
なに、あの白龍奴がまたここを襲いに戻ったとて、今では西軍は我一人しかおらぬとて、神兵は不死身じゃ。死にはせん。決して民の住んでいる所へは行かせはせん。必ずここで食い止める」
アラ「ありがとうございます。では羽衣は預かります。そしてもし龍に出会ったならば、私は必ず奴らを討ち果たしましょう」
ソア「首尾よくやれよ。では行け。今にも北方に奴らが現れるやも知れん」
アラ「それでは。将軍。ソアラ将軍」
ソア「おう」
アラ「行って参ります」
ソア「おう! 行って参れ!」
アライソは踵を返して海浜から離れようとした、ところへ、
ソア「そうだ、アライソ、忘れるな! 羽衣は飽くまで貸すだけだからな! 必ず返せよ!」
それを聞いて彼は振り返り苦笑した。
アラ「ええ、ちゃんと返しますよ。……私は泥棒ではありません! 太刀も羽衣も盗みませんよ!」
ソア「ふふ。そうであると信じておるぞ」
茜色に染まった海は黒ずみ始めていた。空は薄暗くなって行った。紅の光も潰えつつある、急速に暮れ行く海岸で、二つの影は笑い声を交わした。