4.4.3.鹿原の語り
一息、二息、ソアラは深い呼吸をしてから続きを語った。
ソア「そうじゃ。この女じゃ。
将軍である我は侍女である我に向かって走った。侍女は民じゃ。兵ではない。決して死なせてはならぬのだから。
しかし龍奴にそんな理屈は通りはせん。奴はただ侵略しに来たこの地を破壊するのみ。この場に居る者を弑殺するのみ。
そして龍奴の顎が天地のように開き切り、漆黒の喉から轟音が発せられた。凄まじい風が周囲を圧した。塵灰は天に達するほどに巻き上がり、礫が四方へ吹き飛ばされる。
我らが方にも、いや奴が向いているのは我らが方じゃ、その我らが方にこそ、礫片が射られた矢のように跳び来たる。見えた瞬間、我は三保羽衣を取り出してそれらを防ごうとしたのだが、咄嗟のことにそれで守れたのはどうにか足元と背後の侍女だけであった。
上半身は散弾となった礫を浴びて、脆くなった疵口を風圧で抉られ、襤褸にも紛う姿となった。
よろけ倒れそうになるのを背後の侍女を思い返して踏み止まり、龍の奴をば睨もうとしたものの、視界は真っ白で何も見えはしなかった。ああ、眼球は潰され、視覚は失わされたのだ。西の海に浮かんでいるのであろう夕陽の明るさは分かるものの、それ以外は、ものの輪郭も分かりはせん。
まずい、と思った。これでは二撃目が来たら防ぐことも儘ならぬ。
が、一呼吸しても何も来ぬ。目蓋を下ろして集中すれば、遠くで戦いの声がする。どうやら、他の兵達がすぐさま反撃を開始して、龍奴はそちらを相手にしているようじゃ。
我は後ろに振り返り、侍女が蹲っているであろう場所に向かって、
無事か。
と問うた。
掠れ震える声が、耳というより心に届いた。
わたくしは無事でございます……。ですが貴女様は。
おお、そうか。それならば良かった。
侍女はそれには応えなかった。しかし彼女の雰囲気を察し、我は続きを述べた。
案ずるな。これこそが神兵の役目。民を守ってこその神兵だ。ましてや我はその長である。貴殿を守れて誇りに思うぞ。
ああ、貴女様が、ソアラ将軍。
おお、よく知っておる。そうだ。我こそが西方守護大将、鎮西将軍、鹿原である。神兵としての本懐を遂げられ、いや何よりだ。
侍女は咽び、啜り泣きながら、
ありがとう、ありがとうございます……。
だがしかしここは危険だ。早々に立ち去るが良い。
申し訳ありません。申し訳ありません、逃げそびれて、しまったのです。
うむ。
我は言ってしゃがみ込み、当て推量で彼女の肩の辺りを撫でようとしたのだが、いや恥ずかしい、実際に撫でたのは頭であった。
そしてまた二言三言声を掛けようとしたのだが、龍の奴め、兵らの攻撃を振り払ったのか、背後から烈風が走り来たった。鋭い風は耳を切り、背にまた礫を浴びせられた。咆哮が上がった。
危うい! 逃げろ!
我は叫んだが侍女は震えるばかりで動けなかった。恐ろしくて堪らなかったのだ。足が竦んで一歩たりとも歩けなかった。
早く!
と口は言うものの、気付かれていないのならばいざ知らず、彼奴はここに侍女がいるのを既に見ている。我らが方にも攻撃の意志を向けている。
逃げられぬな、と内心思った。我の五体が満足であったならばまだ分からぬが、これでは盾にもなれはせん。それが分かるのと行動を起こすのは同時であった」
アライソには目もくれず一心に遺体を見下ろしているソアラは唸った。それから一声気勢を発し、堂々たる音声で続きを語った。大きく見開かれて爛々と輝く瞳からは涙が溢れ出していた。
ソア「侍女たる我は、将軍の我が何をしたのかすぐには分からなかった。目には見えていたはずじゃ。しかし意識としては、認識出来ていなかった。
将軍の我は腕を振るって羂索を操り、自らの肩を締め上げ千切り落とした。
それを拾い上げて侍女の方へと差し伸ばした。微かな抵抗感があり、そこに侍女の体があると察して更にそちらへ押し付けた。するすると腕は彼女の体へ収まって行くようだ。
我がこの腕は長年に亘って練り上げて来た武芸の腕だ。その武術を、技術を、戦う術を、彼女に托して渡した。侍女は民だ。何の訓練も受けておらん、それでは逃げることもままならぬ。しかし、
侍女よ、我は我の武芸の腕を貴殿に渡した。我の技量を貴殿は継いだ。貴殿はこれで我が築いた武術をそのまま使えるようになっただろう。武術とは身体の操作法だ。我と同じ素早い動きが出来るようになったのだ。その術を以ってここから逃げるが良い。
そう告げてから我は諸肌脱ぎになり、身に付けていた武器も全て侍女に渡した。これで何かに襲われようとも身を守れる。
しん、と静かになったように感じた。我が身からは武芸が抜けた。我はもはや将軍職としての武を持っておらぬ。後は彼女がここから逃げるのを待つだけだ。
しかし素人感覚にも察せられる、彼女はまだ逃げてはおらぬ、目の前で動揺したままで居るようだ。
それはそうだ。いくら武術を身に付けようとも彼女の心根は優しい民だ。龍のような脅威に接して冷静で居られるわけがない。
我は残った腕で自らの心臓を抉り取り、それも彼女へ押し渡した。急激に薄らいで行く意識の中に、彼女が落ち着いて行く雰囲気を感じ取った。
何をなさったのですか、ソアラ将軍。
そんな声が聞こえた気がした。いや、侍女の我はそう言った。そして将軍であった我は声にならぬ声で侍女たる我に語り告げた。
我が精神を貴殿に渡した。これで貴殿は自分の身を守れるはずだ。さあ、ここから逃げるが良い。
いや、その声は将軍であった我から発せられたのではない。受け渡された精神から、心の内から聞こえて来たものであった。将軍の顔は無惨に潰れ、目鼻の区別も付かない有様となっていた。
侍女の我は将軍を助け起こそうとした。だが、そんなことはせずとも良い、と。砕けた顎が、動くでもなく、我が内面から聞こえて来た。
我はこのままこうしておけ。それより貴殿はここから立ち去り、生き延びるのだ。
ソアラ将軍、貴女も逃げて。貴女のような立場の方が死んではいけません。
安心せい。神兵は不死身だ。死になどせん。それに立場を言うなら我の全ては貴殿に渡した。記憶も人格も、我の全ては既に貴殿が受け取ったのだ。今では貴殿が将軍だ。
そのようなこと。……いえ、では私が将軍であるならば、貴女の上官として命じます。貴女も逃げなさい。
将軍であった体は、ふふ、と笑ったようだった。申し訳ありませぬ。動けませぬ。そんなことより、将よ、一刻も早く。
この辺りからじゃ。我は惑乱し始めた。侍女であった元々の精神と将軍の精神とが混淆されて、未だ馴染んでいないのじゃろう。乱れ狂い行く意識に抗い立ち上がり、龍から距離を取っていた一人の兵にも叫んで命じた。逃げるようにと。しかしその兵もまた我の命には従わなかった。
兵は民を守るが役目。死にはしません。
と。そして将軍と同じように、我を逃がす盾になろうと仰って。
様々な記憶、感情、意志、そうしたものが我の中で錯綜していた。将軍のものと侍女のもの。混ざり合い結び合い。入り乱れて統一的な意識を保つのも難しくなっていた。
最後に覚えているのは、この女の、生き延びろという言葉。我は混沌とした精神を抱えながらここから走り去ったのじゃ」