2.1.6.夜明けまで生きろ
腕も脚もがきりきりと痛んでもはや限界かと思われた。それでもまだ倒れるわけにはいかなかった。怯える村人達がアライソを見詰めていた。広場の兵士はまだ半分も倒していない。
とにかく守らなければならなかった。少なくとも朝日が昇るまではどれ程の怪我を負おうとも、生き延びなければならなかった。村人達を助けるために。
彼は四肢に力を込め、村人達が集められている一隅へと突進した。ニ、三人の兵士を打ち倒し、村人を捕らえる槍兵の前に辿り着いた。
無造作に槍を振るい、兵士の首を刎ね飛ばした。
アライソに直面した村人達は、辛うじて立っていた者もへたり込み、色を失い、もはや騒ぎさえもしなかった。
彼らを見下ろすアライソの目からは殺意が抜けていなかった。神経は逆立ったままで、彼らの目前に立ったからとて即座に気分を切り替えられるほど器用ではなかった。切り替える状況でもなかった。背後からは兵士らの足音が聞こえていた。
アライソは振り返り、村人達を背にして仁王立ちになり、槍の石突で地面を叩いた。こうして守るべき者達を背にしていると、気力が湧いて来るようだった。たとえどうあろうとも自分の後ろへは一歩たりとも通しはしない覚悟だった。彼は村人達の心情を知らなかった。
アライソへ向かって残る兵士が殺到した。どれほどの圧があろうとも後ろへは退けなかった。血泥に塗れた背中に村人達の視線を受けていた。一歩も動かずに槍を振るい、喉を絞って吼え立てた。
その様子を遠くから睨んでいた兵士の一人が敵に対してちょっとした違和感を覚えた。
兵1「確かに攻撃しているのは我々だけだ。村人は放っておいても害はない。しかしあれだけ狂乱しているのにも関わらず、殺すのは我々のみで村人には槍の穂先がかすりさえしない。むしろ当たらないよう気を付けているようにさえ見える」
兵2「よくよく見ればそのようにも」
兵1「もしや、あれは村人を守っているのではないか」
兵2「何を。あの魔物が。いや、しかし」
兵1「あるかも知れん。いや、それよりも、あれは忌まわしい姿こそしているが、この村の住民とは言え人を守ろうとしているからには、魔物ではないということも」
兵2「あの悪相でか」
兵1「うむ」
兵2「あの凶暴さでか」
兵1「うむ」
兵2「信じがたいが、あの膂力。いやしかし。いや。よし、試してみよう」
兵1「おおい」
彼は後ろに控えていた別の兵士に声を掛けた。その兵士は鎧兜で身を覆い、腰に刀こそ佩いてはいるが、槍も弓矢も携えず、戦闘の役には立たなそうにも思われた。その彼は、会話をしていた兵士から説明を聞くと静かに頷き、背に負っていた銅鑼を引き抜き、撥で三度打ち叩いた。
するとアライソを襲っていた兵士達は潮のようにさっと引き、距離を取った。そして敵への警戒は解かないままに、じりじりと後退して行った。
兵1「おお、見よ。あれは兵士を追って来ない。村人に襲い掛かることもない。同じ場所に突っ立ったままだ。ただ兵士に吼え立てるだけだ。一歩たりとも動こうとしない」
兵2「後ろに村人がいるからか」
兵1「そうだ。離れたくないのだろう」
兵2「その村人は奴に恐怖の眼差しを向けているが」
兵1「背を向けていて気付いてないか、知っていて尚守ろうとしているのか」
兵2「村人らは奴から、ここから、逃げ出したがっている。忌々しい」
兵1「だが、これで奴は村人を守ろうとしているとはっきり分かった」
兵2「では、どうする」
兵1「どうもこうもないだろう。まずは撤退だ。作戦に支障が出たとなれば、将に報告せねばならん」
銅鑼の兵士はその会話を思慮深く聞いていた。目配せを受けると、彼は銅鑼を二度叩き、一拍置いて、三度叩いた。
その音が広場に響き渡ると兵士達の動きは速かった。するすると引き下がり指令への惑いなど一糸と見せずに立ち去った。広場からは彼らの姿が霧のように消えてしまった。
アライソは兵士達の撤退をただ眺めていた。追おうともしなかった。村人が背後にいるからのみではない、肩で息をし、疲労も既に限界だった。立っているのがやっとだった。
周囲を見回しても確かに兵士は一人たりとも残っていなかった。ここにいるのは彼と、蹲った多くの村人のみだった。
なぜ兵士がいなくなったかが分からない以上、まだ緊張を解いてはいけないと頭では分かっているが、体は最早どうしようもなく、脚も胴も腕も全ての筋肉が弛緩して崩れるように倒れ込んだ。
ようよう両腕を地面に突き、血潮の溢れる顔を上げると、遠方の空に浮かぶ雲の底が、暁の光に照らされて眩いばかりに明るく、日輪の頭が地平線上に現れるのも数えていれば直ぐのことに思われた。
旭日の兆に生きている実感が湧いた。この体はどうにか持っていた。戦闘の夜を生き延びた。彼は確かに生きていた。深い傷こそ負ってはいるが、それも女神の妙薬を呑めば全快する。もうすぐ薬が呑めるのだ。そう思えば目と鼻の先にある太陽をゆっくりと待てた。気の緩みから腕から力が抜けて再び突っ伏した。
倒れ伏すアライソを見詰める村人達にはまだ状況が飲み込めていなかった。兵士に捕らわれて朝日を拝めるかも分からない窮地に立たされていると、突如この異形のものが現れて、自分達と兵士らの間を遮った。
異形は兵士達を殺し続けた。ただただ恐ろしかった。目の前で延々と続けられる殺戮に怯えることしか出来なかった。これが自分達を守ろうとしているなどとは脳裡を過ぎりもしなかった。これは殺意をばらまく化物だった。
それでも、こうして自分達は生きている。思えばこれは自分達には傷を一つも付けなかった。槍をこちらへ向けることさえしなかった。もしや、これは、守護者なのではあるまいか。まさか。このような醜く穢らわしく禍々しい姿をしていて。喩えようもない異臭を放っていて。不浄そのものといった為りをして。村人達は囁き合った。
それでも助かったのは事実だ。兵士も村から去った。これからどうなるのかは分からないが、少なくとも一時の平和は訪れた。善意であったのか悪意であったのか、これの本性は分からないが、村は救われたのだ。
安堵の息が漂った。弛緩した空気が横たわるアライソにまで伝わった。すると意識されていなかった左眼が激しく痛み出し、耐えるのも厳しく、呻き声を上げた。
それを聞いて村人達は身を縮めたが、暴れる気配もないと見えて、しばし見守ると同時にこれが生き物であると分かった。それも痛みを持つ生き物であった。肉体を有する生物であった。
アライソは激痛に苦しみ、村人の様子を察することも出来なかった。ただ朝日が待ち遠しかった。すれば神薬の妙効でこの苦しみも消え去るだろう。日が昇るまであと僅かだ。ほんの少し待てばいい、ほんの少しの間だけ耐えれば良くなる。そう思えばこそ苦痛に呻きながらも我慢していられた。
だがこの時、村人の後ろから悲痛な慟哭が上がった。すっかり安心していた村人達は一斉に振り向いた。
そこには妙齢の女が童子を抱いて泣き叫んでいた。必死に騒ぐ女の腕の内にある童子の胸には長い矢が突き立っていた。童子は喚くこともせず、ただ微かな息を不規則に繰り返しているだけだった。瞳は既に虚ろであり、光は灯っていなかった。間もなく息絶え、女の胸に死体を預けるのを待つばかりだった。
村人達は死に瀕している幼子を見て悲しんだ。流れ矢に当たったのだろうが、何もしてやれることはなかった。せめてこの子が安らかに逝けることを願うばかりであった。
苦痛に悶えるアライソも村人達の雰囲気が変わったのに気が付いた。首を持ち上げて巡らせると、人の群の間から、子供を抱く女が見えた。叫んでいた。子供には矢が刺さっていた。
それを見て彼は動揺して這い、彼女らの元へと向かった。村人達はアライソに怯えて道を開けた。そうしたことにも気付かないで女の前まで辿り着き、状況を察した。
地に響くような声を上げた。幼い子供が、それも彼にとっては何よりも大切な神界の住人の幼子が、正に今死なんとしていた。それは彼にとって自分の身よりも重大なことだった。
腰に結び付けた印籠の紐を引き千切り、両手で強く握り締めた。揺すっても中はまだ空だった。まだ朝にはなっていなかった。神薬を飲ませればきっとこの子も治るはずだ。この子を助けなければならない。それだというのに朝にはまだなっていなかった。
東の空を仰ぎ見て、地平線に接する空はほとんど青く染まっているのを見て、それでも彼には日が頭を見せるまでの後もう数瞬が待っていられず、焦燥感に身を焼かれた。
血に染まった頬を涙で濡らし、東の地平線をひたすら見詰めた。印籠を両手に握り締めたままで膝を突き、彼はこの世界に来てから初めて祈った。
アラ「女神よ、女神よ、どうかお願いだ、早く朝日を昇らせてくれ」