4.3.4.熱を帯びるもの
第三層では光の靄は薄かった。それでも霞程度には掛かっており、また室内は広大であり、見渡しても壁を視認することは出来なかった。
穏やかな春の陽気を思わせる神界とも思えぬ、空間は熱を帯びていた。身体の芯まで押し入って来るような、湿度の高い夏日に感じるような暑さだった。いや、正確に言えばばこれは残暑だった。
この熱は光となって散り消えた神人達の残り香だった。
そうした空間に、人の腰元まではあろうかという大きな黒い瘡蓋のようなものが一枚転がっていた。輪回しの輪のように立ち上がって、支えるものも動かすものもないのに独りでに回り、部屋の中を転がっていた。
ザリザリと音を立てて床に轍を残して進むそれには見覚えがあった。忘れもしない、忘れなどしない、それは森の中で戦った種子の外殻だった。
ソアラとアライソはそれぞれ口を引き結んだ。はるばる追って来たものがここにいる。ようやく追い着こうとしている。
外殻は回り転がり動き回り、神人の遺骸である白い靄を掻き分けて、車輪の下に挟み込まれる光の粒を轢き潰して行った。光は砕かれ熱となった。
ソア「同胞を襲ったのはこれか!」
二人の目の前で外殻は尚も転がり回り、靄を裂き、光を砕いた。
と、外殻とは別の場所の白靄がふいに乱れた。見ればそこには一人の神人がうずくまって震え、外殻の動きに目を奪われながら肩で息をしていた。恐れが体を縛めて一歩も動けはしなかった。
靄の流れ、その乱れに気が付いたかのように外殻は床を刻みながら方向を変えた。回転は速さを増し、その神人へと一直線に突撃した。
外殻は跳ねた。放物線を描きつつ神人へ向かって落ちて行った。神人はまさにその車輪の下に轢殺されんとした。
その瞬間に、横から鋭く伸びた羂索が外殻の側面を強かに打った。羂索はソアラの袖から伸びていた。
弾かれた外殻は宙を舞った。だがクルクルと回りながらも空中で向きを変え、接地をすればすぐにまた神人へと向かう姿勢を見せた。
が、地に着く寸前、外殻は真っ二つに割れた。切断面は鮮やかだった。ドサリと落ちた近くには、大太刀を片手に垂らして静かに佇むアライソがいた。割れたのは彼の大太刀での一閃によってであった。
外殻は割れたことによって活動力を失われたのか、もう動かなかった。
それの落下地点と神人との間には、遠くで構えるソアラの袖から伸びた策が割って入り、格子状の網を作っていた。もしもアライソが斬っていなくとも、もしくは尚も動こうとしたとしても、これで彼を守るつもりでいた。
幾つかの呼吸の後、もはや外殻が回り出さないと判断するとソアラは策を袂に仕舞い込み、驚かさないようゆっくりと神人に近付いた。
ソア「無事か」
声を掛けられても神人は暫く何も答えられなかった。ソアラは痛ましく思いながらも相手が落ち着きを取り戻すのをじっと待った。
大太刀を左目に納めたアライソもソアラの横に来、神人の様子を見守った。だがその目元は塔の第一層にいた神女の言葉によって生じた迷いによって暗かった。彼を助けたとしても、自分は結局、神人からすれば魔物と同じなのではないか。
神人はようやく気を取り戻し、はっとして二人を見上げた。そして周囲を見回して、遠くに倒れている外殻を目にすると、この二人が助けてくれたのだと察して礼を述べた。一言それを口にすると堰を切ったように何度も何度も礼の言葉を繰り返した。
ソアラは優し気に微笑んで、
ソア「よい、よい」
とまだ繰り返そうとする相手の言葉を抑えようとした。
神人「いえいえ、本当に、助けて頂いて有り難うございます」
ソア「何を。我は神兵じゃ。民草を守るのが我らの務めじゃ」
神人「それでもやはり、お助け頂き誠に有り難うございます」
そんな遣り取りをしている間にソアラの眉間がやや曇った。
ソア「それに我は守れていない。お前はともかく、この階にいた他の者を。塵となって消え失せた。守れなかった。間に合わなかった」
神人「それは……。それでも、貴女は最善を尽くして下さいました。仕方がなかった、と言うのは他の者に申し訳がないですけれども、それでも貴女は守ろうとして下さったのです。そのお心持、有り難うございます」
じっとソアラは沈み込んだ。しんとした沈黙が漂った。それを静々とアライソが破った。
アラ「魔物は、ここにはいないのですね。立ち去った」
神人は安堵から覚めてはっとして、
神人「ええ、そうです! あれは上に、上の階へ! 階段を転がり上って行きました!」
ソアラの目に火が灯った。
ソア「情報、感謝する。アライソ! 行くぞ! これ以上の犠牲者は出さん!」
階段へ向かって駈け出そうとした。それでもアライソはまごまごとして、神人と何かを話したそうだった。そんな様子にソアラは彼の手を取って駈け出した。
手を曳かれて走りつつ、アライソの脳内には彼に聞きたかった質問が去来していた。即ち、自分は魔物と同じなのか、と。神人と違い肉体を持ち、醜く臭い。結局のところは自分もやはり神人ではなく魔物の仲間の存在なのかと。それを彼にも聞きたかった。
しかしソアラはそんな迷いを察しもせずに手を握り、階段を足早に駈け上った。