4.2.10.水鏡
アラ「どこかおかしい所がありますか?」
ソアラはその声も聞こえなかったかのように、水面から目を離せずにいた。
鏡のような水面には二人の姿が映っていた。水はどこまでも透き通り、清らかで冷たそうだった。
この泉は最前、胚が通ったはずのものではあるが、新しい水も注ぎ込まれて、その水もまた淀みなく流れて行ったのであれば、今ではもう胚の悪影響、粘液や瘴気はとっくに流れ去っているだろうと思われた。
神界の水というものは清明にして同時に甘く、飲めば体が洗われるようであり、見ていればこの水も美味そうに感じられて来た。
彼は両手を浸して椀を作り、水を掬った。口へ近付けると、その手をソアラが弾いた。水は散った。
ソア「やめておけ。おかしい。おかしい。おかしい。やはり世界は乱れておる。狂っておる。この水も、この水は、常のものではない。どうなるものか分からない」
アライソは欲求から覚めて冷静になり、この世界についてより詳しい彼女の意見を聞こうと思った。
アラ「神人の貴女から見て、変なところがありますか」
ソア「あるも何も、見れば分かるじゃろう」
と、彼女は怪訝な顔をして、しかし泉に視線を戻し、
ソア「いや、貴様に関しては普通じゃな。ううむ。しかし、水面をよく見てみろ。我の顔が、映っておらん」
アライソは覗き込んだ。だが水面には彼のものは当然として、ソアラの顔もしっかりと映っていた。
アラ「いえ、映っていますが」
ソア「何を言っているのだ。映っていないだろうが。これは、我の顔ではない。我の顔が映っておらん。水鏡は真実を映す鏡じゃ。真実こそがここに映るはずなのじゃ。それなのに何故、我の顔が映っておらんのだ」
アライソはそこに映っている顔を見て、それからソアラの顔を見た。見比べても違いはなかった。そこにあるのは確かに彼女の顔だった。
アラ「どこにも違いはないようですが……」
ソア「何を言っているのだ。貴様は目が見えぬのか? 別人じゃろうが。これは我ではない。我の顔ではない。一体これは何者だ。何故、こんな。この鏡はどうしたと言うのだ。誰じゃ、これは。鏡に映るこいつは誰だ。一体誰だ、映っているのは……。おかしい……。……、やはり世界が狂っておる!」
彼女は叫んで手斧を泉に叩き込んだ。水面は大きな飛沫を上げて、波が立ち、彼らの姿は散り消えた。
ソア「狂ったものに正気で向かうのは馬鹿じゃ。気にするべきではない。そうであろうが。おい、アライソ、行くぞ」
彼女は乱暴な身振りで背を向けて、乱れた足取りで進んで行った。アライソは小走りをして彼女に追い付き、そっと横目で表情を窺った。出会った時から変わらない、水鏡に映っていたのと同じその顔が不機嫌そうに歪んでいた。