4.2.9.暗い水の中
二人は川の両側に分かれて追って行った。小走りに駈けつつも、岸を照らして粘液の跡が外へと出ていないかを確かめて行った。
大分の距離を走ったが、共に粘液の跡は見付からず、やはりあれはここを流れて行ったようだ。幸いにも川の流れは一筋にして別れることなく辿って行けた。
途中で魔物にも遭遇したが、行くべき先も判明して気力も取り戻した彼らの敵にはならなかった。
流れる水音、洞窟内にも反響して自分を包み込むように聞こえるそれらが心地良かった。淀んだ空気の嫌な臭いも忘れていた。ただ一心に二人は川縁を駈けた。
そして、彼らはまた壁にぶつかった。
行く手に岩壁が立ち塞がっていた。川は横に広がる壁の下へ、水の流れは壁の下を潜って地中へと没していた。
それを見るとソアラは松明を放って衣服を脱いだ。一糸と纏わぬ彼女は脱いだものを手早く畳んで包みにし、袈裟懸けに体に縛り付け、水中へと跳び込んだ。
水面を眺めていても浮かんでは来ない。深いようだ。アライソもまた松明を脇に置いて跳び込もうとした。
しかし、と躊躇った。地中に潜った水脈は、一体どの程度続いているのだろうか。地下へと潜り込んでいて、息継ぎをする空間があるのだろうか。神人であるソアラであればその心配もないのであろうが、それで迷いもなく跳び込めたのであろうが、呼吸が必要な人間である自分であれば。
彼は首を振った。
アラ「ええ、知ったことか!」
服を脱いで羽衣を腹に巻き付け、意を決して跳び込んだ。
水中は広いようだった。両腕を目一杯に広げて泳いでも指先に触れるものもなく、悠々と動かせ、自在に泳げた。
だが、息は?
アラ「ここは神界だ」
たとえ地下と言えどもその世界だった。神界の水は清らかにして大気と変わらず、息が出来た。
松明は捨てて明かりはなく、真暗い水の中であるのにも関わらず、彼は不思議と安らげた。息と肌とでここが神界だと実感し、理想世界に自らが存在出来ていることを、その身をもって思い出せていた。
そうではあっても闇の水中に揺蕩って、上下左右の感覚すらも失っていた。自らの存在が周囲に溶け出して、体と水との境目が分からなくなりそうだった。
それでも肌には自分を優しく撫でて行く水の流れを感じていた。彼は流れを意識して、その流れに乗り、その方向へと泳いで行った。
今の自分が下を向いているのか仰向けになっているのか、それも分からない。先に跳び込んだソアラは見えず、どこにいるのかも感じられない。彼は光のない緩やかな水の流れの中にただ一人だった。
だが、彼は自分が流れに乗って行くべき方向へ向かっているのは確信していた。不安はなかった。
自らでも泳ぎ、そして水の流れに後押しされるようにして進んで行った。
どれだけの間、そうして流されて行ったのだろうか、彼は遂に煌めく光をその目にした。眩い光が面となり、ちらちらと揺れていた。
おそらくは、この水脈は外へと続いており、あれは外の光、日の光が水面を照らしているのだろう。染み入るような光の漣は、揺れるばかりに潤った美しい鏡面を思わせた。
彼は目的も忘れてあの鏡へ向かい、あの鏡面へ身を投じたいと思った。
アラ「輝く鏡を通り抜ければそこは外。外の世界」
この水の中も心地良いが、あの外にも出たいと思った。輝く光の面へと向かって泳いで行った。
光の鏡面に飛び込んだ。
周囲が開けた。頭が水上へ出た。片手で顔を拭い、改めて辺りを見回した。
僅かな凹凸もない平野が広がっていた。岩もない。森も見えない。あるのはただ、自分が浸かっている大きな泉とそこから流れる小川だけだった。
そして泉の岸にはソアラがいた。彼女は既に衣を纏い、小川の先を眺めていた。それが水音に気付いたのだろう。こちらを振り向いて、
ソア「アライソ、遅いぞ」
とだけ言った。彼は彼女の方へと泳いで行った。足が水底に付き、半ば歩きながら岸へと登ろうとした。ソアラは彼に手を差し出した。
アライソは腕を伸ばしてその手を握ろうとした。が、その手に触れる寸前、彼女は手を引っ込めて、既に掴む気でいたアライソは転んだ。
アラ「やめてください、そういうの」
笑いながらそう言った。ちょっとした悪戯だと思ったのだ。だが、彼女の眼差しは真剣だった。その視線はアライソではなく、そのすぐ脇へと向けられていた。
彼女の見ている場所を眺めながら岸へと上がり、隣に立った。ソアラは変わらず水面を、じっと見ていた。アライソも再びそこへ目をやったが、彼の起こした波が治まりつつあるだけだった。
アラ「どうかしましたか」
彼女は見ている場所から視線を外さず、ただ、
ソア「おかしい」と呟いた。