2.1.5.肉の魔物
顔色は青褪めて歯茎は震え、全身が強張っていた。左眼から流れる血潮は止まる気配もなかった。
しかしここが神界で良かった。現実世界であったならば失血で気を失っていただろう。神界は精神の世界であった。肉体の傷病よりも精神力が優先された。
手足は痙攣していたが、怒号を発し、気合を入れると力は漲って行った。
地面を踏み潰すようにして、一歩一歩に全霊の力を込めて歩いて行った。
また別の兵士が現れた。アライソを見て憎悪にも近い戦意をその目に宿らせた。彼が見ているのは、顔も体も血と煤とで赤黒く染め上げられて、非道い悪臭を放つ、不浄の魔物であったからだ。
兵士は音も立てずに地を蹴って、俊敏に相手の懐に潜り込もうとした。だがアライソが吼えると大気は激しく振動し、衝撃が兵士を襲った。兵士は空気のうねりに動きを阻まれ、耳は潰れた。
それでも怯みはしなかった。勇敢に立ち向かおうとした。しかし体勢を立て直したのとほぼ同時に、禍々しく穢れた槍が襲い掛かり、頭蓋が割れた。
その後にもアライソは何人かの兵士と遭遇した。その度に彼は槍を乱暴に振り回し、兵士達の武術を膂力だけで粉砕していった。彼の侵攻を止められる者などいなかった。暴れる毎に彼は左眼から溢れ出る血潮で自身を汚し、苦痛と疲労と焦燥から獰猛になっていった。
道の先には焼け焦げて破られた扉があった。上部には煉瓦が弧を描いて築かれていた。ここは門であったのだろう。踏み越えるとそこは広場だった。数百人が集まって踊り回ってもまだまだ余裕のありそうなほど広かった。
広場の中央には女神を模した大きな石像があり、四本の細い柱がそれを囲んでいた。柱の頂には環が付けられて、そこに青、赤、白、黒、黄色の五本の飾り紐が通されて女神像の頭上に広い四方形を描いていた。中でも黄色の紐は太く、金鎖や銀鎖が結ばれて垂れ、鎖に埋め込まれた緑や紫や橙の宝石がきらきらと輝いていた。その煌めきはまるで女神像から発せられる光輝のように思われた。
月明かりに照らされて不思議とその彫像だけが破壊されていなかった。広場を取り囲む家々は燃え尽きて瓦礫となっているのにも関わらず。村を焼いていた炎でさえもこの広場を見捨てたのにも関わらず。そして広場は人々の叫喚と怒声に満ちているのにも関わらず。
数十人の兵士らが槍を突き立て村人達を一隅へと追いやっていた。兵士の槍による誘導から逃れようと横へ駈け出した者は背後から突き刺された。
一ヶ所に集められた村人は壮麗な甲冑の槍兵らに包囲され、更に遠巻きに弓矢を具する兵士達に見張られていた。
兵1「よく逃げ回ったものだなあ。大人しくしていれば良かったものを」
兵2「すれば殺されずに済んだものを」
兵3「村は燃やされずに済んだものを」
兵1「どうして貴殿らは抵抗した。素直にしていれば何も起こらなかったのに」
兵2「無駄な足掻きを」
兵3「無意味な被害を」
兵1「こちらだって好きで襲ったわけではない。分かっているな」
兵2「従わないからこのように」
兵3「人は殺され、村は壊され」
兵1「ここも御霊様の国土というのに。貴殿達が恨めしい」
兵2「我々は破壊させられた」
兵3「貴殿達が、そうさせた」
村人達は項垂れて、兵士らを見上げることもせず、繰り言を聞いてもいなかった。ただ恐怖に震えていた。女や子供は立ってもいられずしゃがみ込んでいた。
その中には雨下の白蓮のように麗しい女もいた。結局は逃げ切れずにこうして捕まったのだ。他の者達と同じように膝を抱えて嗚咽していた。何でもいい、とにかく助けが欲しかった。誰でもいい、助けてくれるのならば、天魔にさえも縋りたかった。
細く滑らかな髪が額に貼り付いていた。それを掻き上げようとしたのではないが、彼女はふと面を上げた。すると涙で潤んだ視界の中に映り込んだものを見て、状況も忘れて悲鳴を上げた。自分達を脅している兵士達よりも遥かに恐ろしいものがいたからだ。
何人かの兵士が彼女の視線を辿ってそちらを向いた。彼らは動揺し、それでも一瞬の後には臨戦態勢を整えた。広場から伸びる道の内の一本の、広場と道との境となる門の手前に、この世のものとは思われない悍ましい怪物がいたからだ。
それは二本の脚で立ちながらも背中の曲がり、全身はどす黒い血に塗れて、脂染みた髪は乱れて逆立ち、顔からは鮮血を噴き出させ、ぎらぎらとした隻眼は憎悪に燃えて、食い縛った口元は歪んで剥き出しの歯の間から唸り声を響かせ、仲間の遺品であろう黄金の槍を携えた、禍々しい肉の魔物だった。
穢れなき神人達にはアライソの姿はそう見えた。
彼は村人達が囚われているのを見て咆哮し、荒々しく地を蹴った。石畳を踏み鳴らしながらの疾走は、まさに魔獣そのものだった。
左右から無数の鋭い矢が飛来した。アライソは槍を振り回し、裂帛の一声を発した。大気の震えに矢筋は狂い、彼まで届かず落下した。
兵士達がアライソへと向かって来た。居並ぶ甲冑が幾重に重なり月光をきらきらと反射させて一斉に敵へと押し掛ける有り様は、磯辺に波濤の打ち寄せるが如くだった。
だが磯は頑強にして微塵も動かず、ぶつかる波こそ弾かれて散った。アライソの拙く荒々しい槍の旋回が兵士達を撥ね飛ばして行った。次々と。一人また一人。鎧袖一触とはこのことだった。彼の得物がかすめて行って無事でいられる者などいなかった。
血潮が彼を染め濡れど新たな傷は開かなかった。
アライソは一歩一歩確実に村人達へと向かって行った。
神人達は恐怖した。兵士達は蒼白になり、村人達は絶望していた。遠くで矢を番える弓兵達も体の震えを抑えることが出来なかった。
一人の勇敢な兵士が仲間に向かって目配せをした。仲間は眉を顰めたが、苦渋の想いで頷いた。
勇者は自らの槍を仲間に託し、鎧兜も脱ぎ捨てて、薄衣一枚の姿となった。彼は身を低くしてアライソの槍の下を潜り、敵の胴体に抱き付いた。
これで相手の動きを止めた。後は自分ごと貫き倒せ。目配せはその意志を伝えたものだった。
しかし彼は知らなかった、生きる人間の肌の熱さを。
灼熱の鉄柱を抱いているようなものだった。肉の熱さに気を失いそうだった。だが彼は誉れある戦士だった。自分の命を捨てる覚悟も出来ていた。
それでも、アライソの左眼から流れ落ちる血をうなじに浴びると、気力ではどうしようもない限界に達して失神した。
アライソは彼を踏み潰し、兵士の殺戮を再び始めた。彼は傷を負った獣そのままに周囲に敵意を撒き散らし、我を失っていると見えるほどに狂猛だった。
広場には兵士の遺骸が積み重なって行った。寄らば倒され、射ようとも落とされ、兵士達には為す術がなかった。アライソは一歩一歩確実に村人達へと向かって行った。
捕らわれている村人達の間には悲歎と嘆息が漂っていた。
村人「ああ、我らの村は戦火のみならず異形にまでも襲われるのか」
神人達はアライソが何をしようとしているのかを知らなかった。ただ醜穢な怪物が暴れているのが見えるだけだった。兵士ですらも手に負えない異次元の魔物がこちらへと歩みを進めていた。自分達の最期を悟った。
兵士「安心しろ。貴殿らは許さんが、しかしあれは必ず討ち取る」
村人は自分達へと槍を向ける兵士を拝んだ。
村人「どうか、お助け下さい」
荒れ狂うアライソの許にその会話は届かなかった。ただ着実に積み重なる疲労で荒々しい息を吐いた。今こそ縦横に暴れているが、体の動きが鈍くなれば直ぐに群がられて刺されるだろう。そうなればお終いだ。
東の地平線にはまだ曙光が滲んですらいなかった。