4.1.7.乱麻
その言葉も終わらぬ間に、二条の縄は飛んで来た。アライソは避けようとするのでもなく、後ろへ跳び退こうとするのでもなく、もっともそれは索に阻まれてやろうとしたとしても出来なかったが、逆に前へと、襲い来る縄の先端へと向かって踏み込んだ。
彼は一条を下から力任せに斬り上げた。それは切断されることはなかったが、向かい来る力と彼の与えた力を載せて、勢いよく上方へと跳ね上げられた。返す刀でもう一条を横へと払った。
跳ね上げられた縄は頭上を塞いでいた索に絡まり、横へと弾かれたものはそちらの索に絡み付いた。
三本の索で作られた道の先には、両腕を広げて無防備なソアラがこちらを見据えてじっとしていた。彼女は自らの袖から伸びる縄によって繋がれていた。
袖から縄がすり抜けて、身体の自由を取り戻しても既に遅く、アライソの白刃が目前に振り下ろされていた。
と、その瞬間だった、アライソの視界が真白く染まった。その白さが眩暈のように揺らいだ。そして視界の白さは波を作って、ゆっくり下へと動いて行った。落ちた。
その白いものとは羽衣だった。ソアラの片袖から伸びていた。二人の間を漂って、太刀の行く手を遮っていた。
羽毛のようにふんわりと落ちる羽衣の裏から、きょとんとしたソアラの顔が現れた。
ソア「貴様、我を斬るのではなかったのか?」
アラ「いえ、元から寸止めのつもりでしたが」
ソア「ううむ。斬ろうとすればこの羽衣で太刀を絡め取るつもりだったのじゃが」
アラ「はあ」
と、本人から作戦を語られて、毒気が抜かれそうになったのを慌てて気を入れ直し、手首の返しで刃の角度を変えてから手首を戻して刃先を首筋に添わせ、
アラ「終わりです。手を挙げて下さい」
それを聞いてソアラは舌打ちして諸肌脱ぎになり、両手を上げた。
ソア「足元も晒すか?」
アラ「いえ、結構。動けば転ばせます」
彼女は長い溜息を吐いた。
ソア「ま、出来るじゃろうな。これまでの手腕を見ればそれくらいはやれるじゃろう」
それから鼻を鳴らして、
ソア「しかし変な奴じゃのう。強奪はしても強盗はせんのか。ものは盗っても人は殺さず。ええ、惜しい。我を斬れば我の勝ちじゃったのに」
アラ「さっきから、貴女は盗るだの盗んだだの、一体何を言っているのです」
ソア「何を? 何をも何も。それ、貴様のその大太刀。それは神界の宝器じゃ。東方の将軍の持ち物じゃ。どうやって盗んだ」
アラ「この大自在王の太刀ですか。これは東方のシノノメ将軍から譲り受けました。いえ、正確には預かっているだけですが」
ソア「何じゃと。何を。ん? そう言えば譲ったとか何とかあったかも知れん。いや、しかし、そうじゃ、その太刀はシノノメが旅人に渡したと聞いた。しかし銘まで知っているとは。知った上で盗んだとは大罪じゃの」
アラ「だから盗んでいません! いえ、どこでシノノメ将軍が渡したと聞いたのです」
ソア「東軍からの書状にあったからの」
アラ「その書状を知っているとは。貴女は一体何者です」
ソア「はあ? 西方大将だと言っておろうが」
アラ「それを読んだということは。え。では、本当に将軍なのですか?」
ソア「何を言って……。貴様……、もしや信じていなかったのか? これまで我を将軍と呼んでいたのにも関わらず?」
アラ「……」
ソア「信じられん。これだから別の世界の住人は。すぐに人を疑いおる」
アラ「いや、それは……。すみません……」
ソア「それで、その太刀をどうやって手に入れたのだ。書状の内容からしてあの旅人が簡単に討ち取られるとも思えんが。いや、貴様は強い、それもきっと出来たのじゃろう。どこでやった。旅人はどこにいる」
アラ「私がその旅人です」
ソア「何をふざけたことを。この期に及んで」
アラ「本当です。……書状には旅人の名前がありませんでしたか」
ソア「名前? 何と言ったかな。確か、アラ、……アライソ、とか何とか」
アラ「私の名前は憶えていますか」
ソア「貴様のことなど何も知らんわ」
アラ「……名乗りましたよ。……猪などが来る前に」
ソア「そうじゃったか? うん?」
アラ「貴女が袋子を見付ける前に」
ソア「その時は考え事をしていたからの。いや、しかし何とか言っていたな。何と言っていたか。確か、……アライソ。……あ!」
アラ「分かってくれましたか……」
ソア「いやいや、そんなもの、異人にはよくある名前なのじゃろう!」
アラ「……当人でなければ書状に記されていた名前は知りませんよ」
ソア「それはそうじゃな。何故その名を知っていた」
アラ「……当人だからですね」
ソア「おお! では本当に!」
アラ「はい……」
ソア「いや、でも、しかし、いやいや、それはおかしいぞ。何せあの書状にはその旅人は謙虚で、人徳があり、礼儀正しいとあったのだ! 貴様のような失礼な奴ではない!」
アラ「失礼、でしたか……」
ソア「そうじゃそうじゃ! こちらが名乗っても名乗り返さん! むすっとしていて愛想が悪い! ぶつくさぶつくさ陰気臭い! 書状にあったような高潔さとは程遠い! しかも我が将軍であることを疑っておった!」
アラ「それは……、まあ……、はあ……」
ソア「じゃろう?」
アラ「すみません……」と、はっとして、「いや! でも、太刀を持っていたからと言って、いきなり襲い掛かることはないじゃないですか!」
ソア「いやあ、宝器を盗んだ悪賊とばかり! 悪賊に掛ける言葉などないじゃろう! はっはっはっ」
アラ「……」
ソア「兵法は拙速を尊ぶのじゃ!」
アラ「……」
ソア「いや、失敬、失敬!」
アラ「殺されそうだったのですが」
ソア「勝ったのだからいいだろう! いや、無事で何よりじゃ!」
アラ「……」
ソア「何じゃ、その目は。まあ、許せ!」
許せと言われてそう簡単に許せるものではなく、それでも西軍の元へ行くには彼女の案内が必要で、太刀を納めて西行きを再開せざるを得なかった。
むっすりとして行けども行けども一向に機嫌を直さない彼の態度に、
ソア「まったく、もう。こうして何度も謝っておるというのに。何じゃ何じゃ、そう臍を曲げるな。まったくもう」
と、やれやれとして、
ソア「仕方がないのう。それなら仕返しをさせてやる。ほれ」
と、しゃもじを投げ渡し、
ソア「それで我の尻でも叩くがいい」
と、こちらに尻を向けて来た。その呑気な調子にアライソの中で何かが切れて、しゃもじを地面に叩き付けた。
ソア「ああ、我のしゃもじが……」
とてつもなく悲しそうな表情になって目元に涙まで浮かべたのを見、アライソは大きな溜息を吐いた。
アラ「もういいです。行きましょう」
ソア「許したのか?」
アラ「ええ、はい。許しました。ええ」
ソア「それなら今度は我のしゃもじを投げ捨てたことを謝ってもらおう」
アラ「すみませんね!」
彼は苦い顔をして腕組みしながら、彼女はしくしく泣いてしゃもじを撫でながら、再び西へと向かって行った。