4.1.5.赤い猪
赤く広がる空ではホトトギスが八千八声を吐き落としていた。地平線は黒くなった。その黒い線が太くなり、空の際を滲ませた。
ソア「控えておれ」
彼女は一歩踏み出して、両手を袂に仕舞い込んだ。鋭く睨む彼女の視線の先では、黒い地平線が揺れ始めた。地鳴りがした。
黒い線は明らかにこちらに向かって来ていた。それは獣の群だった。夕闇を被った獣の群が迫って来ていた。
土煙を上げて迫り寄る獣は、一頭一頭が巨大な猪、胴体を躍動させて背負っていた闇を振り落とし、血肉とも紛う真赤な毛皮を露わにした。
その群の一頭一頭の、猪の牙まで見分けられる程まで迫ったかと思うと、ソアラは袂から手を抜き出した。それぞれの手には縄の束が、羂索が握られていた。
半身を捻じって片手を大きく振ると凄まじい勢いで索は伸び、流星のように宙を流れて一頭の猪の額を割った。索の先端の鉄環が撥ね返ったかと見えるとソアラは手繰り、半分の距離ほど戻った頃合でまた伸ばし、別の猪のこめかみを打った。
両手に握った羂索をそれぞれに操り、二本の縄が扇状に飛びつ戻りつし、次々と猪を打ち倒して行った。
彼女は武術を身に付けていた。
しかしそれでも多勢に無勢、前面の獣を倒して行っても彼らとの距離は着実に縮まっていた。猪どもは死骸を踏み越え迫って来た。
もはや目前、ソアラは片眉を顰めて舌打ちした。群に飲み込まれるのも数瞬後のことに思われた。
と、先頭を走っていた猪が縦に割れた。頭部から裂かれた右の胴体と左の胴体が二つになって、ドスンと落ちた。索を振り回しながらも横目で見ると、アライソが大太刀を振り下ろし、次の一頭に向かうために刃を反したところだった。
ソア「貴様! 多少は出来るのか!」
アラ「多少は……、いえ、大分出来ます」
ソア「おお! 言うのう! 自信満々で結構なことじゃ!」
羂索を振り回し、猪どもを薙ぎ払った。アライソは踏み込み、別の一頭を断ち斬った。
アラ「こちらも驚きました。貴女が武芸を心得ているとは」
ソア「当然じゃろう! 我は将軍だと言ったじゃろうに!」
彼女が、実際のところはどうであるにせよ、少なくとも自分を神軍の大将だと思い込むだけの実力はある、とアライソは思った。
地滑りのように押し寄せる獣の群は索を打ち込まれ、勢いが削がれた。ソアラが打ち漏らしたのか見逃したのか、目前にまで接近し、彼らに飛び掛かろうとしたものはアライソの白刃に斬り捨てられた。
止むことを知らぬ魔獣の突進はたった二人の索と刀に阻まれていた。猛り狂う黒い怒濤が、彼らを境に静まり返った。
茜に染まった草原で、小さな光の流星が何度も飛び交い、鋭い銀閃が幾筋も走った。それらの輝きが煌めく度に、次々と赤黒いものがその場に倒れて行き、草原に幾重もの漣を描いて行った。
獣は疎らに、群は薄くなったように感じられた頃、不意にソアラが振り返り、アライソへ向かって索を飛ばした。咄嗟のことに防ごうとしたが、その先端は頭上へ向かい、空中を縦横に走って交差したかと思うと網になった。
ソアラは網を手繰って引き寄せ、手首の動きだけで網を縄へと解きほぐし、縄の半ばをポンと跳ねさせ何かを飛ばし、アライソの足元に落として捨てた。
ソア「毒蜘蛛じゃ。侘緒鎖の脚に糸を絡めておったのだろうが落ちて来た」
アラ「助かりました」
ソア「なんの、なんの。貴様ら民草を守るのが神兵の務めじゃ」
けらけらと笑い、それからまた猪へ向かった。
アライソも太刀を握り直し、数を減らした獣を見て、
アラ「これならば」
と、群の中へと突入し、刃を横に、下段に構え、脚を捌いて回ったかと思うと、周囲の草は薙ぎ払われて宙へと吹き飛び、
アラ「地昇華」
旋風が巻き起こり竜巻となって何十頭もの猪を空高くへと飛ばし上げた。竜巻の中で猪どもは疾風の刃に切り刻まれて、屍となって落ち来たる。
室内であれば対象を一人に絞り込み、足元から順々に斬り上げて行くものに過ぎないが、野外であれば、そして技を極めていれば、これはこうして旋風を巻き起こして多数の敵を巻き込んで切り裂く、複数を同時に相手取る、空間的な攻撃となった。
この竜巻からも逃れた残り僅かをソアラは遠くからポンポンと処理した。
猪の群は全滅した。アライソは一息入れて血振りをし、夕日を反して光り輝く大太刀を片手に提げたまま、額を拭った。
アラ「終わりましたね!」
しかしソアラは返事をしなかった。アライソが大太刀を左目に仕舞おうと、ちょっと持ち上げた瞬間、鉄環が飛んで来た。はっとして太刀の峰で弾いた。
今度のものは頭上へ逸れるのではなく、はっきりと彼の胸を狙っていた。
アラ「何をするんですか!」
既に索を手元に戻して握り締めていたソアラは豁ッと両目を見開いて、轟と鳴る気迫を発しながらアライソを睨んでいた。
ソア「何をする? 何をするもないだろう。ここで片を付けてやる! この賊が!」
突然の言葉に戸惑いを抑え切れないアライソへ向かって、彼女は再び索を飛ばした。