2.1.4.修羅の道は遠く
その道の先で数本の矢が横切るのが見えた。
怒りに震えていた。彼の愛するこの世界の静寂を乱し、平和であったはずの村を焼き、無力な村人を殺す兵士らに。彼らの凶行を何としてでも止めなければならなかった。
その時、彼は数人の兵士に出くわした。兵士達は、塵や汗や煤や垢で汚れた容姿のアライソを見て面食らった。当然だ。神界に穢らわしい肉体を持つ人間などいるはずがなかったからだ。
四人の兵士は慌ただしく槍を構えた。動作こそ忙しなかったものの、一度構えればその姿勢は巌のように重々しく、槍の穂先に跳ね返された光が相手を射抜いた。
だがアライソは武芸など知らなかった。経験者ならば一目見ただけで感得される、兵士達の修練の程など、ほんの僅かにも分からなかった。自分へと押し寄せる強烈な気迫になど気付かなかった。だから怖気付くこともなかった。
彼は片手に握った槍を乱暴に横に薙いだ。
すると兵士達の槍は強風に煽られた芒のように靡き、乱れた。あるものは打ち上げられ、あるものは打ち落とされた。衝撃に耐え切れずに、兵士の手を離れて打ち飛ばされたものもあった。
アライソは槍を大上段に振り被り、一人に向かって振り下ろした。兜こそ傷付かなかったものの、打たれた兵士の首はあらぬ方向へ折れ曲がり、崩れ落ちた。
神人は精神だけの存在である。しかしそれは人間であるアライソにもあった。つまりその点において両者は互角である。一方で神人には肉体がなく、人間にはあった。すなわち肉体を持っている分だけ人間の方が強かった。
そして肉体とは力そのものだ。人間と神人とでは、力の面において存在そのものに起因する絶対的な差があった。
彼は再び振り被り、別の兵士に向かって振り下ろした。飛び退こうとしたが間に合わず、一人目の兵士と同じように倒れた。
槍の使い方など知らない。棒術もまた知る由もない。力任せに振り回しているだけだった。それでも三人目の防御を砕いて殴り殺すには充分だった。
最後の一人に向き直り、それまでと同じように大振りに叩き付けようとした。輝く黄金の眉庇の下、その兵士と目が合った。彼にはまだ少年の面影が残っていた。青春の紅味が頬を染めていた。
兵士の腰元から光の束が奔騰した。槍の穂はアライソの左目に直撃した。しかしアライソは素人らしい崩れた体勢をしていたために、刺突は眼球を抉り取って横をかすめて行くだけにとどめた。もしも彼にそれなりの経験があり、正中線を相手に向けて真向に対峙していたならば、槍の穂先は脳にまで達していただろう。
アライソの槍は少年の肩を打ち、膝が崩れた。それを見て、横から大きすぎる予備動作の一撃を瑞々しい頬へと叩き込んだ。
兵士は吹き飛び、受け身も何もあらばこそ、街路に落ちて鈍い音を立てた。腹這になっていて見えないが、兜の下の顔面は柘榴のように弾けていただろう。
アライソの左眼から熱が噴き出した。その熱は後から後から溶岩のように溢れ出て頬に流れた。唇にまで達すると、それは鉄臭く、錆臭かった。血だった。抉られた左眼から血液が濁流のように流れ出ていた。
押さえたが止まらず、指の間から滔々と流れて肘を伝い、地に落ちた。
残る右目も霞んで行くかに思われた。その目で上空を睨んだ。前を向き、右を向き、左を向き、炎の先の夜空を睨んだ。だがどの方角を見ても夜は暗く、旭日の兆しは現れてはいなかった。
日の出と共に丸薬が出て来る。
アラ「朝日が昇れば女神の印籠に神薬が生じる。それを呑めば次の日の出までの丸一日、傷一つだにない体になる。血は止まり、眼は治る」
夜明けまで待てば、夜明けまで生き延びれば、彼の身体は万全の状態に戻るのだ。
この世界でも、神人であろうとも、死は存在することを知った。ましてや人間である自分であれば猶更だ。兵士らの槍に突かれ、もしくは炎に焼かれれば命はない。戦っていれば肉体は傷付き、死に至る。神薬が生じる夜明けまでは必ず生き延びなければならなかった。
アラ「だからと言って」
身命を惜しんで立ち止まってはいられなかった。こうしている間にも村人は襲われ殺され続けている。
気力を奮い立たせて槍を杖にし、握る手には力を込めて、歯を食い縛り、足で大地を踏み締めた。炎を背にした彼の全身は火照っていた。